うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

生活保護と自立支援プログラム

「貧困は社会のせいだ!」と信じて、生活保護申請随行のボランティアをしたら、クズばっかりだった話

いわゆる一般的な人と比べて、
『適切な計画を元に一人で生活を切り盛りしてゆけるはずだ』
といった先入観で眺めるでしょうから、落胆するのもおおいに納得できる。
そりゃあ、当事者を「そんなこともできないのか」と、責めたくもなるでしょう。

わたしなりの意見としては、ブログ主の実体験を参考にさせてもらうと足りていないのは「基本的なお金の使い方」を含む『生活スキル』なのでしょう。
支給金額を小出しにしたりするのも、強制的に計画性を持たせるという意味ではいいのかもしれない。
しかし、その環境から外れた場合のことを考えると、彼らの自立について考えた場合、教育や訓練などによりそういった生活スキルを身につける機会を作ってゆかなければならないのではないかという発想が浮かぶ。

生活保護の位置付けは自立支援の一貫だとされているのか定かではありませんが、そのような位置付けにして現金給付のみだけではなく、教育的なものとセットで提供した方が効果が高くなるのではないかと想像します。
そもそも基本的な生活スキルを学ぶ機会に乏しかったのかもしれないし、依存症などの病気の状態に陥ってしまい本来の価値観を逸してしまったまま知らずに生きているのかもしれない。
ちなみにブログに出てくる薬物依存者はれっきとした病気ですので、治療が必要なのです。

お金だけで後は本人任せで解決しようとするのではなく、当事者の背景に思いを馳せた上で、彼らの自立に向けて足りないものをサポートする体制が整っていれば、いつ生活困窮に陥るとも分からない不安定な社会情勢においては、わたし含む一般市民の方々も安心して生活を送ることができるのではないでしょうか。

『支援の在り方』
を、もう一度棚卸しをして再考すべきときなのだとわたしは感じています。

人生を何度でも再スタートし直せるような世の中にしてゆかねばならぬと、現在も人格的な部分も含め生活再建に取り組み続けているわたしの切なる願いです。

薬物依存と自助グループ

“覚せい剤やめますか?人間やめますか?”の害:日経ビジネスオンライン

最近わたしはNA(ナルコティック・アノニマス)という薬物依存症の自助グループのミーティングに通いだした。
ちなみに、わたしは薬物依存症の本人ではありません。
しかし、わたしはそれら依存症のベースとなると言われているAC(アダルトチルドレン) の本人だということを自覚しているため、ACA(アダルトチルドレンアノニマス)という自助グループに通っている。

NAとACAは両方ともAA(アルコティック・アノニマス)というアルコール依存症者の自助グループから派生したグループで、個々の体験談はそれぞれのアディクション(依存対象)に依りますが、ほぼ同じ仕組みやルールで運営されているんだな、ということを参加して体感してきた。
ちなみに、地域にあるAAにも足を運んでいます。

AAもNAも通い続けることで、依存から脱し続けることができることが過去から続く仲間たちの体験的に分かっています。
背景にあるのが<孤独>だったりしますから、わたしには納得できます。

人間として本来あるべき“依存”の対象を、他者に対して健康的に依存する、というやり方で取り戻せるのだと、わたしは実感しています。

NAに通う中で感じたことはというと、
『世間では犯罪者のレッテルを貼られ無理解に晒されている彼らだと思うが、実際には人生をやり直すべく真摯に治療に取り組んでいるんだな』
という実感がありました。
わたし、静かに感動しているところです。

そのような彼らが、わたしのようなどこの馬の骨とも分からぬ相手に対し回復を願う“仲間”として快く受け入れてくださるものだから、人に頼れず孤独の中で生きてきたわたしは嬉しくてたまらない、という体験をさせていただいています。

このような彼らの態度から受ける印象はというと、
『思いやりある人たち』
です。

おそらく、社会に蔓延している先入観とは真逆なのではなかろうか。
この先入観を打破するような体験をしているということは、とても貴重なことなのではないか。
ということをここ最近のわたしは感じています。

本やネットなどで間接的に触れていたとはいえ、これほどまで感動するとは思いもよりませんでした。

おこがましいながらも、依存症という病気の患者である彼らの回復、そして社会の理解が少しでも進むことを祈らずにはいられません。

学びも深く、このような巡り合わせに感謝です。

悲しみに暮れる君へ

わたしは祖母の死が原因の悲しみが癒えず長年鬱積していた感情と数年前直面し苦しみました。

しかし、その悲しみと向き合い受け入れるとこができた今では、あの出来事の意味を自分なりに理解し、今に生かすことができている自分がいて驚きです。
当時はこのようなことは想像もしていませんでした。
わたしの力というよりは、人間にはそもそもこのような力が誰にでも備わっているのだなと確信するに至っています。

ちなみに、喪失体験の悲しみと向き合うのに非常に有効だったツールは『グリーフ(悲嘆)ケア』です。
本がありますから、一度目を通してみてはいかがでしょうか。
ネットで調べても出てくるかと思います。
実際にやれれば必ず回復するはずです。

医師の診断では病名がつきがちでしょうけど、喪失体験による悲嘆は人間として当たり前の反応です。
脳が生前と比較して関係性を整理するときの感情が“悲しみ”に他なりません。
これは適切に向き合うことで、人それぞれのペースで緩和されゆくものなのです。

ご自愛ください。

今、うつ病で苦しんでいる方へ

こんばんは。

わたしはうつ病歴18年を過ぎ、何度も再発を繰り返しては職を転々としましたが、ようやく昨年あたりから落ち着きを取り戻しています。

恐縮ですが、ここらか長くなります。

わたしの場合はと、前置きして、通院と投薬だけでは一旦は症状は落ち着くものの、再発を繰り返すばかりで途方にくれていました。
そんな折り、無料で相談してくれる機関(若者サポートステーション)を利用し、そこでは臨床心理士さんや他の相談員さんとカウンセリングをしていました。

ある日、相談していると過去の記憶(身内の死)から涙が流れたことがきっかけで、そこから一旦劇的に体調が悪化しました。
仕事もパートですが続けながらでしたが、不安定でしたから対人関係でトラブルを起こしがちでしたし、その苦しさから図書館へ逃げ込んでは心理学などを読み漁りながら現実逃避を繰り返す日々が続きました。

しかし、現実逃避のつもりで逃げていましたが、今の自分の状態を助けるかのようにして本が次々と現れていた気がします。そのときは生きるのに必死でしたから、気づきませんでしたが。
そのとき通院ではいっこうに回復へと向かわなかったということがあり、もう独学でなんとかしてやる!という気持ちで読んでいましたが、後になり一人でがんばるだけではどうしようもなかったのだな、ということに気づくに至りました。

そうこうしてるうちに、そのときの仕事を辞めることになり、介護の資格を取り、障害者の施設に就職するも半年ほどでうつ病が再発し、休職することになりました。
精神障害の利用者の方が多い職場でしたので、休職する前ですが上司から近所の精神科で今度始まる「復職支援のためのうつ病リワーク」というデイケアを教えていただき、よもやわたしが通うとは思ってもみませんでしたが、結果的に休職することになり、5ヵ月通いみっちりとうつ病の治療をすることになりました。
そこでは「飲む医療から学ぶ医療へ」というコンセプトのもとで、
うつ病理解のための心理教育
SSTソーシャルスキルトレーニング)
・集団認知行動療法
・マインドフルネス
を中心に
・ヨガ
・軽スポーツ
・集団/個人オフィスワーク
・グループでの軽作業
などのメニューで行いました。
認知行動療法やマインドフルネスは本やネットで薬と同じぐらい病気に効果があるということを知っていましたから、いつか実際に受けたいとずっと願っていたところ念願叶ったことになります。

また同じ時期に、ACAというアダルトチルドレン自助グループに通いだし、自身の体験を話したり他者の体験談に耳を傾けることにより、孤独を感じやすく生きづらかった自分なりの原因が見えてくるにつれて、不思議と肩の荷が降りるかのようにして心も体も軽くなるという体験をしています。
今でも毎週通っていて、直接的なうつ病の治療ではありませんけども、結果的に症状を緩和することにつながっている実感があります。

通院も数ヵ月に一度していますが、薬は飲まずに過ごしています。
しかし、再発のリスクとは一生同居して生きることになりますから、いつでも処方してもらう準備はできています。
しかし、医師の方針で薬は最低限の処方ですし、回復具合から飲む飲まないはわたしの判断に委ねてくださっています。

長くなりましたが、うつ病は回復することは可能です。
実際にわたしは回復状態を維持しています。

認知行動療法やマインドフルネスは本でも沢山出ていますし、レクチャーを受けたとしても理解していることが前提になりますから、読んでおくにこしたことはないかと思います。
ネットでも情報は出ていますが、本を手に取るのがオススメです。
日常に取り入れるまでいければベターかもしれませんが、お近くの機関でやられているところで実際にレクチャーを受けられたら受けてみるといいと思います。
わたしの場合は東北の田舎ですからそのような機関に通うことは半ば諦めて、見よう見まねで自分でやってはいました。
遠くの地方にある精神分析医のいる精神科に通ったこともありましたが、先方の都合であえなく通院を断念したこともありました。

しかし、死にたい気持ちや消えたい気持ちとも長い期間同居しましまが、あきらめずに生き続けていたらいつしか回復を維持している今があります。
ですので、無理せず自分なりの回復の道を諦めずに探し続けて欲しいです。

つらくなったらわたしのように逃げてください。
今では仕事をすることよりも、命の方を大切にしなければならなかったのだな、逃げたことにより今の回復があるのだな、と思えるようになりました。
うつ病になるぐらいですから、そもそも他者よりも必死にがんばって生きていたのです。
逃げたくなって当然のことだと思えます。

どのような本がいいかなどご質問などございましたら、いつでもお問い合わせください。
当事者として答えられることはいくらでも答えます。

長くなってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。

みなさまの回復をお祈りしております。

人生は何度でもリブートできる

「中年ニート」120万人、統計に表れない無業者 :日本経済新聞

ずばりわたしの世代。
そしてわたしもうつ病を煩い、自分なりに何度も社会復帰にチャレンジしてきた経験がありますが、困難を極めている。
今もまだ途中でありますが、あきらめつつも続けていたところ徐々に見通しが立ちつつあります。

周囲の人たちの支えに感謝です。

わたしの周囲にもちらほらとわたしと似たような境遇の方たちがいます。
驚くことに、一人は半ば自力でなんと統合失調症から回復し、今では就職して働いています。
先日、その彼と久々に会い話ししたところ、わたしと似た苦悩の深さを持っていて、とても深い会話ができて満足です。

しかしね、ひょっとしたら彼やわたしのような体験をしている人が記事にある「ニート」の中に含まれているとしたら、自己責任だとするのは些かハードなものがある。

わたしたちのように病気と向き合うことを通して、根気よく徹底して取り組むことができる人は限られているのではないか。
何も能力が高いということをアピールしているのではなく、むしろ社会に不適応をおこしていたのですから、むしろ逆。

それと、最近知り合った人にわたしと似たような体験をなさっていて、ニートな方がいらっしゃるんですけど、その彼がものすごい勢いで社会復帰に向けて動き出していることを現に目の当たりにしているところです。
若い方と比べると年代的に先が短かったり職歴に乏しかったりしますし、置き去りにされてしまいがちですけども、前に話した統合失調症の友人然り体験の質は深いですから、うまくその体験を咀嚼し受け入れられるまでに、心理的な面で成長を促すことができれば、社会にとって有用な人物へと変化するとわたしは確信します。

何せ、人生あげて失敗し続けているという体験を続けてますからね。
金には結びついていませんが、学びは深いですよ。

このような未来を二度と繰り返さぬためにも、彼ら(過去のわたし)のような人と出会うことがあったら、支えになることを続けてゆこうと思います。

わたしの体験がね、どうやら彼らの役に立っていて、彼らの再起動の原動力になるらしいの。

しかし、この体験も与えられたものだと考えると、感謝の気持ちになります。

ありがとうございました。

自死者に対する自己責任論の過ち

自己責任を求める成功者たちにつけるクスリ - HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

いくら努力し頑張ろうともどうにもならないことは沢山ある。
これは、あきらめるための理由ではなくて限りある資源を有効に使うための知恵である。

なにかにつけて個人の責任に還元されがちな日本。
いったいどうなっちまったんだと、嘆かわしい。
それを言う人には
『あなた一人の力で生きているんじゃないでしょう』
と言いたい。

自らが苦境にあえいで何をしたところで事態が好転せずどうしようもなかった、という苦しい時期を乗り越えてきた体験があり、かつそれを乗り越えたのは自らの力ではなく周囲の力添えによるものが大きい、という認識を持っている人は、自ら死を選ばざるを得なかった人を責めることはせず、思いやりの気持ちを向けて魂を報いる選択をするだろうとわたしは思う。
どうあれ人の死というものは悲しいものだけれど、遠く離れたところからは悲しいかな現実感覚に乏しいため冷たい態度を取ってしまうのかもしれない。
ちなみにわたしは身内の不幸な死により、こういうことを学ばせてもらいました。

自分一人の力で何かを成し遂げられるという考えはとても傲慢。
何を隠そう過去のわたしのことです。

注意深く観察してみると、こういう考えを持っている人ほど、周囲にはサポート人員が多くいるものです。
そのことに本人が気づいて、そして周囲のサポートに対して感謝の気持ちを感じることができるかできないかで、人間性が試されていると言えるのではないでしょうか。

そろそろさ、
『死を選らばざるを得なかった人の身にいったい何が起きていたのか?』
ということを自らの考えや想像よりも優先して知ろうとしてゆく方向にシフトしたいものですね。

生きるために必要な関係性の話

私たちが生きていくために必要な関係性にはまだ名前がない――家族と社会の新しいあり方について - はたらく女性の深呼吸マガジン「りっすん」

わたしも「家族とは何か」ということに思いを馳せることがよくある。

以下引用↓↓↓
> これまでPIECESがつくろうとしている「しっくり来る名前がまだ存在しない関係性」について考えてきました。アーレントの「親密圏」という概念を補助線に引きましたが、まだその関係性に名前をつけることまではできていません。「家族」でもなく、「友だち」でもなく、単なる「他人」でもなく、「先生」でもない、この関係性。
↑↑↑以上引用
これに当てはめるものとして、例えば<仲間>ということばはどうだろうか?
親ではないが子どもの支えとなる対等な関係性を持つ人に対してだろうから、若干ズレてるかもしれないが、対等であることを通して心を開いて大切なことを相談できるようになると思うし、対等な態度は何よりも優先すべきことなのではないかなと。
年齢的に大人と子どもなど明らかに上下関係が発生しそうな関係性においては、特に意識して然るべきものだとわたしは常日頃から考えて、拙いながらも行動に移しているつもりではあります。

家族ではないがこれまで家族が担ってきたような親密性の機能を備えている、新たな関係性。
なかなかこれは最先端をゆくものだね。
わたしも過去の体験からこれと似たようなことを考えることが多い。
というかまるで同じかもしれない。
とても親近感です。

以下、余談です。

わたしの通う自助グループのメンバー同士では“仲間”と呼び合うんですけども、深い体験談を共有するという意味では、いつしか家族以上の関係性がそこに生まれることがある。
プライベートではほぼ関わりを持たないはずなのに、不思議と感覚的にはそうなってるんですよね。

だからこそ、わたしたちのような“孤独感”の中をどうにかサバイバルしてきた仲間たちが癒されることにより、存在が許された感覚が生まれ、生きづらさが取れ、性格も変わり、新たな関係性が構築されると共に、新たな人生の幕が上がる、ということを多くの仲間が体験しているのでしょう。
わたしもまたその恩恵を受けている一人です。

感謝。