うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

新任の管理職に知っておいてほしいこと。 | Books&Apps

新任の管理職に知っておいてほしいこと。 | Books&Apps

引用↓↓↓
> だが結局のところ、人の上に立つ人物は、言ってしまえば
>
> 「現実を見る、嫌な奴」である。
>
> 現実に人を動かすとは、そういうことだ。

いやー、わたしはこれ読んで誠実さを感じたよ。
現実を直視することはときとして痛みを伴うもの。
それを認識して嫌悪感やもどかしさを感じつつも、部下たちがのびのびと働けるように手を尽くす。
よく訓練しないと難しいかもね。

残念ながらあんまりいない。
わたしがそうなれたらな、と夢見ていると同時に日常を通した実践の中で訓練していますよ。

ビル・ゲイツ氏が一日の終わりに緊張をほぐすためにやっている科学的にも証明された2つのこと

ビル・ゲイツ氏が一日の終わりに緊張をほぐすためにやっている科学的にも証明された2つのこと https://gunosy.com/articles/RXojJ


f:id:zxmisia:20170404221455j:plain


あれ、さっきの投稿この記事シェアしたんだけど、写真アップしたらシェア記事情報消えるんだな。

懲りずにコピペしとくw

あ、ちなみに感覚を味わいながらやる皿洗いはね、一種の瞑想なのよ。

ではコピペ↓↓↓

眠りに入りやすくするためには、その人なりの習慣によって、体、特に脳に「これから睡眠に入りますよ」ということを認識してもらうことが大切だとよく言われますね。

睡眠障害の発端となった“悩みごと”。
それが解決した後も入眠が困難になった状態を<原発睡眠障害>というそうだ。

ああ、違ったw
そもそもあった悩みごとが解決した後にも『眠れない』ということそのものが悩みごととなり、睡眠障害の様相を呈するのが原発睡眠障害だったw
書いててなんかおかしいと思ったんだよな。

あと、わたしなりにこれを紐解いてみると、<体>目線から考えられそうなことがある。
自律神経、特に交感神経の昂る習慣が、体にインプットされることにより、心理的な要因(悩みごと)が解消した後にも肉体的な要因により「寝付きにくい」ということもあるのではないかな?

よく言われるホメオスタシス(恒常性維持機能)の一種だと考えて差し支えないと思う。

わたしも長らく睡眠には悩まされた。
うつ病が発端となり、セットでついてきたのが睡眠障害

体験した症状としては、
入眠困難(寝つけない)
中途覚醒早朝覚醒(途中で目覚める)
・過眠(寝過ぎる)
この3つかな。

そのときどきで長期間作用型、中期間作用型、入眠用の短期間作用型、それぞれの睡眠導入剤を服用していたものだ。

今では睡眠についての悩みは抱えていないが、活動しすぎたり生活リズムが乱れるととたんに睡眠の質が激減する。
あと、わたしはよく短時間(~30分)の昼寝をする。
どうやら脳の活動が活発らしく、すぐに疲れるなのでもっとこまめに昼寝を生活に取り入れたいと考えているところである。
ちなみに、思考を現実のものとするための訓練として行動もセットでやっとります。
つーか、日常のフィールド全てがわたしにとっては訓練、否、修行なのだよ。

修行といえど、なにも行動についてだけではなく、休憩についても意識したいと先日思い立ってやってるところ。

それはいいとして。
一般的に「これはいいよ!」っつーものを取り入れるのもまたいいのだが、合う合わないはありますからあまり気合い入れてやりすぎると、それがかえって寝つきの悪さを促したりしますから、適当でいいのです。

そして、眠れないのなら体のその声に合わせて眠くなるまで無理して寝る必要はありません。
これは精神科の心理教育で学びました。
ただ、リズムを整えるために、起床時間は一定にするのを心がけることが大切だと言われています。

現代人は何かと人生に忙殺されがちですから、うつと睡眠に関してはもはや正面から向き合わなければならないときに来ているのではないかなと、わたしは感じています。

ときとして薬に頼るのもいい。
わたしもたまに余ってるのを飲む。
しかし、わたしは体験から大切なのは生活全体を通した『習慣』だという風に考えます。

ときに年間50冊は読破とはいかないまでも、目は通してる気がしてるのだが、いかんせん最近失速ぎみである。

50冊だとだいたい週一冊ペース。
読む人はもっと読むよね?

まあ、しかし、以前は強迫観念に駆られた病的な読書だったのだけど、いわば最近は落ち着きを持って無理なく読書に向かっているということであるな。

あと量を読むにはなかなか難儀する。
なので興味ある箇所から読み進めるとか、あとは師匠が言ってたんだけど熟読しすぎなくても自分にとって大事な箇所は残るそうなので熟読せずとも目を通すぐらいでいいらしい。
試験勉強とかはみっちりやらにゃあかんだろうけどねー。

わたしも無理せず飽きたら読むのやめることにした。
空き時間にちょびちょびと。

うつ病をひきうけて生きる。

f:id:zxmisia:20170403225842j:plain

わたしの簡易祭壇。
これぞ、マルチタスク飲みである。
単にだらしないだけとも言うがw

自宅でもねー、気づくと3つぐらい同時に手をつけてる。
全部飲み干す前に次のに手をつけてはの繰り返し。
ま、“残す”というのはわたしの貧乏性の現れでして、もったいないとは名ばかりの捨てられない執着の囚われである。
そして、次のものにすぐ手をつけるのは、興味が次々に移り変わるという内面の現れでもある。

熱しやすく覚めやすい。
いやはやこのような気質を持って生まれた宿命ともいうべきか、わたし自身も振り回される日々である。

あ、これはこないだ撮った写真ね(・ω・)

今日からバイトが休みのため、
昼からストア三吉で弁当買って飯を食い、平田タウンセンターで知り合いとだべったり本読んだり借りてる本を借り直したり用事をすませた後、総合支所で自立支援医療証の更新の手続きをし、明日のハロワの書類を揃え、さっきNPOの理事長さん宅で白熱してきたばっかw
なげーよなw

あ、失業保険もらえるかもしれない。
ほんと、ギリギリで首繋がっている。

しかし、これはこのような体験を通して学びなさいというわたしの人生からのメッセージ。
ここ2年ぐらいの間(その前から知識としては過去との向き合い方を学び続けかつネットに日々書き殴ってきた)、現実を通してこれまでの人生を振り返る機会を与えられているんですけど、このプロセスを経て体験から教訓を得る術を体得した今だからこそ、これから先に起こる出来事も全ての体験がわたしの学びとなるのだろうなと心から思えるのです。

あと、自立支援医療証を持っていると、医師の診断書が必要となりますが、精神科通院の医療費と薬が自己負担が1割になります。
お世話になることがないことを祈りますが、いざというときの助けとなりますから覚えておいて損はないかと思います。

わたしは健常者として社会、特に職場というものにずっと馴染めずにこの年齢となり、かつうつ病の再発を繰り返しにくりかえし、障害者手帳も申請しようとしたけど該当せず、どちらにも属さない、、、がわたしは人間であることには間違いない。
ほんと、間にぽんっと追いやられる。
イコール
『おまえは一人生き自らの力で人生を切り開いてゆけ!』
と言われているがごとく。

ええ、ええ、これまでもそのように生きるしかなかったし、その通り精神疾患を抱える当事者として生きてゆきますとも。
ほんとわたしの神様は酷なことしやがるぜ。
やめてほしい。
(ちなみに恨むなら神を恨むといいらしいよ。逆に許しと愛を与えてくださるんだそうです。にわか信じ難いでしょうけど、わたしはこれを実感しています。しかし、疑う気持ちがあるのなら疑うしかあるまい。そこが入り口なのだから。これ以上は割愛w)

幸い、奇跡的にも回復状態を維持できており、再発のリスクを抱えているとはいえ、体の声を尊重し丁寧に生きてさえいれば問題ないレベルにまで到達できたと自負している。
うつ病じたい完治とは言わずわたしのような状態を指して『寛解(かんかい)』したと言いますので、ぜひ覚えておいていただきたい。
うつ病の再発を繰り返すとさ、脳のね、構造が変化してさ、再発しやすくなってんだって。
わたしの主治医の話しなんだけど、ソースは不明だけど論文引用してしゃべってた。

時代はうつと孤独の世界へといつしか突入しているようで、あらかじめ知識として知っておくことによって、転ばぬ先の杖となることでしょう。
しかし恐れることはありません。
回復するまでにそれは様々なことを体験したわしがここに生きていますから、何かあったらすぐに相談してください。
きっとわたしの存在が、あなたの薬となりましょう。

わたし自身、うつ病の再発はざっと数えたら大小合わせて10回ほど。
生きているのが不思議なぐらいです。
しかし、途中で生き方変えた方がいいと気づけなかったのかという反省がある。
生き方の変え方からして1から学び直さねばならぬほどだったのだけどね。

しかし、そんなに難しいことはないよ。
一言で言えば
『自分に素直な生き方』
へと徐々にシフトしてゆく、ということが基本となってます。
わたし自身ね。

ほんと、我ながらクレイジーです。
そうです、わたしはアホがつくほどのバカ正直です、うっかり何度も命を落としそうになりました。
ごめんね、わたしの体。
しかし、今ここに生きていられる体を与えられたことに感謝せずにはいられません。

そんなことはいいとしてw
わたし、NPOの理事を任命してくださった理事長さん宅へ行ってきたの。
雑談の中で、現状どうなってるのかヒアリングして、<わたしのこれから向かおうとしている仕事>について熱く語らせていただいた。
緊張しいで普段物静かなわたしはリアルではなかなか安心して考えを正直に自己表現できる相手は限られている。
その限られた相手のうちの一人です。
(別口でよりスケールの大きな話しにもなったんですが、それについても超白熱した!まるでわたしの師匠と同じこと言ってんなー、しかし師匠は既にそれを予言してたなーと。彼は人を解放に導く役割を担っているんでしょう。おそらくわたしもそのうちの一人。現実に照らし合わせて生かすしかあるまい。おそらくこういうことがわたしに与えられている使命。)

リアルに口に出して表現し続け、思想を固めることが今のわたしに与えられている課題でして、それが分かってから機会を見計らいつつもすぐに行動に移している自分がいて驚き。

最近、悩むより前に行動してることが増えてきたな。
まー、よくすっ転ぶのは前と変わりないんですけども、その失敗から学ぶことの深さたるや、尊くてたまらないという実感。
やつまちまった感もそれはでかいですけども、それにも増してありがたくてたまらない。
まるで永遠なる体験を手にいれたかのような感覚になります。
しかし、一瞬一瞬同じことは何一つ無いと考えると、言い換えたら永遠とも言えそうですね。
普段は忘れがちですけど、わたしたちは一人一人かけがえの無い体験の中で生きていたんですね。

今日も一日生きられたことに感謝します。
ありがとうございました。

わたしのこれまでの人生の癒しのプロセス。

わたしのこれまでの人生の癒しのプロセス。

様々なことが起こる毎日だけど、そんな中でもこのプロセスが強力に前進していることが分かる。
(その過程の中で、傷つけた相手もおりますので、機会ある度に穴埋めしてゆきたいところである。)

長らくうつ病を患っていたため、後遺症的な体の感覚は残ったままにせよ、もともと内面にあった落ち着きと平穏の場所が徐々に広がっていることが分かる。

何があったかというと、久々に心の底から震えるような涙を流した。
悲しみではなく、これはまるで”慈悲の涙”ともいうべき感情なのかもしれない。

ふっとね、弟が前にやろうとしていたことが浮かんでさ、それにわたしがこれからやろうとしていることと結びつき、純粋にまだ見ぬ彼らの希望を願う温かな気持ちと現状を憂う悲しみとが混然一体となった感情。

人って温かさと悲しさを同時に感じることができるんだね。
過去の悲観がベースとなった未来への希望。
涙しているときの感情を見つめていたら、まるでモザイクのようだった。



あれほどまでに死にたい気持ちに見舞われ続けても、今ここに生きることができているわたしならではの体験なのかもね。

決して派手ではないが、味わい深い人生だな。
また泣けてきたw
こんな体験、もう二度とないかもしれないから心ゆくまでじっくり一人で全身で味わおうっとw

生きてて良かった。
よもや、心の底からこう思える日が来るとは思わなかった。

そして、回復のプロセスはまだまだ続くのである。

生き方が分からないと悩むクセ。

生き方が分からずにすぐに悩みにどっぷりとつかるクセ。

しかし、表向き(感情的)には悩んでいても、実はかすかではあるが内面とのつながりから生き方を紡ぎ出せるところまできている実感がある。

昨日も書いたことだけど、内面とのつながりを太く維持し続けるためには、健康第一ですな。
特に体。
食事や睡眠、次に動くための活力を得るための休養。

特に目まぐるしい勢いで移り変わり続け、やることがめいっぱいになりがちの現代。
この流れはおそらく止まることはない。
このような風潮の中でも忘れがちなものが「休む」ということ。
仕事(ひとそれぞれにして何が自分にとっての“仕事”なのか?ということにも思いを巡らせておくといいでしょう)を生産的にすすめてゆくためにも、わたしたちの体は休養を必要とする。

日常をめいっぱい活動の時間にあてがちであるわたしは、よくこの「休む」ということの価値を見失いがちです。
その都度、体が悲鳴をあげてわたしに知らせてくれるのですが、その前兆であるサインすら見失いがち。

穏やかな時間を意識して持つということをもっと意識したいものです。

それと、ここ最近やってきたことを続けてゆく。
恐れながらでいい。
恐れが沸いたらそれと向き合うチャンス。
向き合うためのガイドライン的なものは与えられているので、いくつかあるそれらを利用する。
(すぐに内にこもりがちですから、もっと信じられる他者に頼ってもいいのかもしれない。ありがたいことに増えてきた。バランス調整中。)

あとは、これまで通り芽を大切にゆっくりとそだててゆく。
ここ最近出歩く中で、そのような育てって欲しい芽に沢山出会う。

かんたんに言うと、それらを応援しているときにわたしは生きている実感を得る。
“応援”の仕方は様々あると思う。
わたしの苦にならない距離感を見つけたいところ。
わたしが全面に出て周囲をひっぱってゆくというよりは、そのような関わりを求めている。

要するに全面に出ずとも生きて行ける。
だから、孤独にはつよい。
果てしない孤独感の中で生き延びられたのだから当然のこと。
しかし、わたしがもとめていることは、
『正直な心と心のぶつかりあい』
だった。

その都度その都度の他者との関わりを通して、相手が元気になったのならばそれがわたしの喜びとなる。
やろうとしてやってるというよりは、無意識でやってるとこあるんだけどわりとね、元気になる人出てきたかも。
驚くことに彼ら彼女らの滞っていた人生がね、動き出すんだよ。

小さい頃に強烈に感じたあの「わたしは誰かの影である」感。
あれは、こういうことを伝えるためのメッセージだったのだろう。

しかし、まずはわたし自身の基盤を安定させるべく育ててゆかなければならないのだけど、まずはこれを中心に。
エネルギーが欠乏に陥ってしまっては、もともこもありません。

コレ、わたしの人生の目的を達成するために、実は一番大切。

誤解を恐れずに言えば、わたしは「平穏」を求めて生きているところがある。
その過程においてじたばたともがいては、その都度自ら平穏から遠ざかっていたという過去がある。
(病気のモデルをあてはめると“躁鬱”的といえそうだ。)
今もまたその渦中にあると言えるのでありますけどもね。

だいぶ手当てはしてきたのだが、愛着の傷を抱えているため、やっかいではあるが、全てわたしなりに理解したという自信はあるので、不安定感に陥ることも多いかもしれないが、なんとかリカバリできると信じたい。

この傷を創造性に転嫁できる日が来ることをまずは信じて待とう。
すぐ焦ってどうしようもなくなるわたしにとって、「待つ」ということも大切なことである。

とにかく、求めていることは「平穏」。
がんばらなくてもいい場所だともいえる。
だからこそ、頑張れば頑張るほど内面的にはその状態から遠ざかるというジレンマ。

無意識に、そういう場所であったり人であったりを探していたということが分かった。

しかし、ここぞというときにがんばらなければならないポイントもあって、それに気づいて行動にうつせるかどうか。

面と向かって向き合いさえすればいいんだし、それをやるための知恵もすでに得ていると言えるでしょう。

だから、本当は生きる上での出来事の数々はもはや悩むほどのことはないのである。

現実と向き合うための、体の健康を維持しようとし続ける。

なんど考えても、ここに辿り着くんだな。

れいごとに聞こえるかもしれないが、自分らしく生きようと人それぞれにしてみんな何かと戦いながらもがき苦しんでいるんだなという思いをより強くした。

そして、生きるということは痛いし苦しい。

なんて表現したらいいのか、その全てが苦しみという形でわたしたちに迫ってくるのかもしれない。

しかし、その苦しみの中にも、ほんの一瞬かすかな光が差すかのごとく感じることが少しずつ増えてきた。

恐らく、以前からこういう瞬間は何度も訪れていたのだろう。
それに気づいていなかっただけで。
気づこうとする意識すら働かなかったのかもしれない。
しかし、その理由は人それぞれにしてあるのでしょう。

そこから抜け出し、幸せを手に入れるために、まずはそのことに気づくことが大前提なのではないか。

それと、自らが幸せになるに値すると認めようとし続けることもまた大切。

今まさにこの瞬間に自分の体で感じていることに意識を向けようとし続ける。

単純かもしれないが、こういうことの繰り返しなのかもしれない。

あとは、体が疲れ果てていると、感覚が鈍ったり不要なものまでキャッチしてしまう、ということがあるんだろう。

シンプルなことかもしれないが、これに尽きるような気がしてきた。

偉そうなことばかり書いているわたし自身、まだまだなのでありました。

おやすみ、今日。

マインドフルネス。


f:id:zxmisia:20170323002019j:plain


f:id:zxmisia:20170323002026j:plain


ビンゴびんご。

この全部に<瞑想>について書いてある。
特に、マインドフルネスは瞑想から宗教色を抜いてより科学的な分野と融合したものだとわたしは理解している。

ユング心理学にも瞑想出てくるし、みんな迷わず今すぐに始めるべきだぜ。
体系的な心理療法に組み込まれたものなら、うつすら治る。
オレは実際に医師からレクチャー受けて、これを体験してる。
レクチャーを受けた時期(去年)は誰から教えられるでもなく、日常にも取り入れだしていたタイミングでもある。

わたしも見よう見まねでやってたんだよ、振り返るとね。
師匠も道元さんの話をよく引用するし、それを聞いてオレも「あー、やっぱそうだよねー」ってこころに響いてた。
彼も<禅>の思想には相通ずるセンスを持っているのだろう。
それぐらい苦しみ多き人生だったのだから当然のこと。

しかし、誰がどうであれ全て人間。
内面と深くつながることで、その先の世界の入り口に近づくということがあるのでしょう。
未だ科学では解明されきっていない分野のようで、いやー、なんだか内心勝手に燃えるw

気になる本は買って手にとるべきだね٩(ˊωˋ*)و