公益文科大学メディアセンターにて。
とう!
昨日、公益文科大学のメディアセンターの図書館で。
いやー、心踊ったw
思わず写真撮ってしまった、ごめんなさい(・人・)
ちなみに、二枚目の空いてるところは、借りるために抜いたからないのw
◆
【Bokucan(・ω・)】人間大好きなんだなー。
それが転じて人間大嫌いになっちゃってたもんねー。
大変だったね。
【Bokucan(・ω・)】とは、わたしの内面の子供のような純粋な部分。以前わたしは自身の内面に宿る“彼”をこのように認識していた。
オープンにするのは少し抵抗ありましたが、パーソナリティ・ディスオーダー(パーソナリティー障害)の治療などでは、たとえばよく自分が怒り狂った状態などにネーミングして客観視することで、怒りに身を任せるずに他の行動を選択するようにする、なんていう風に使われていることを考えると、わたしもこれはよく分かる。
外在化っつーのか、いったん外だしにする。
そうすることで、責任を個人から外だしににしたそれに委譲でき、そこから新たな展開を生むことが可能だということだろうなと理解してます。
まー細かいこと書いてたらキリないから、いいや。
よく考えたらこういうことについてはちょー工夫しまっくてるぜ。
これぞ、わたしのうつ病を回復へと導くために発揮していた創造性だね。
『生きることはまさにそれそのものが創造である』のよ。
わたしの中の閉じた世界でやってんだけど、苦しさの中に発見したささやかながらの楽しみですw
いつもSNSにタイトル考えないで投稿してるから、急にタイトルきかれても困るw
昨日行った、コワーキングスペース アンダーバー。
昨日あそこに行き、出会ったのが写真の本と記事。
行く先々、まあ、ネットも含めてなんだけど、こういうものがよく目につく。
両方とも精神医療関係の方が書いた記事なんだけど、オレの興味とどんぴしゃw
去年、アンダーバーのあるとなりの建物の図書館で借りたNBM(ナラティブ・ベースド・メディスン)について知った。
これについて素人ながら「医学はここまで進んでるのか!」と静かに心を打たれるほどの感動と衝撃を受けたのを今でも覚えてる。
これについて『ナラティブと人間学』というタイトルで深尾憲二朗さんが書いていた記事は読みごたえたっぷりだった。
精神疾患の患者の診断のプロセスが書いてあったんだけど、こりゃ、オレの人生で使える!とか思った。
人間について、相手がどのような方なのかの一応の分類に、わたしはこのような基準を参考にしてたりするのよね。
なぜかはよくわからないが、染みてくるの。
あとは、わりとメディアなどにもよく名前の出る精神科医、斎藤環さんが書いた『“コミュ障”は存在しない ――開かれた対話と「コミュニケーション」』。
フィンランド発祥で話題の開かれた対話による治療<オープンダイアログ>について、コミュニケーションとからめて書いてあった。
まー、わたしがうつ病を患ったきっかけがコミュニケーションでありまして、わたしも個人的にオープンダイアログというものにたどり着いておりました。
何を隠そう、わたしも<社会不安障害>などという病名だったこともある、直近でね。
しかし、主治医は「以前からあった神経症と似たようなもの」とおっしゃっていたし、対人関係にがてで緊張しまくりだったというわたしの理解のするわたしの性格もあって、特に意に介さないで「ふーん、やっぱそういう診断になるんだねー」と他人事のように聞いていたのを思い出すw
それについての、日常を通しての対人訓練、しかもわたしが一番苦手とする対象(困ったことにこの世の約半分をしめるw)にちょいちょいコミュニケーションの練習して、手当はしつつあったし。
◆
つい話し飛んじゃってたけど、この記事との出会いは、すごい。
オレのこれまでの人生を凝縮してると言っても過言ではない。
こういう記事や本と出会うことにより、わたしは徐々にうつ病からの回復へ導かれてきたかのように感じています。
これから先、どのようにつながってゆくのかは想像がつきませんが、おそらく、うつ病などの精神疾患、コミュニケーション、にからむ分野へと景色が変わりゆくのだろうなということは、なんとなく分かるのですよね。
まるで、シャーマン的というか、なんていうか、理屈はわかんないんだけどなんとなくそう感じるんですもの。
わたしがわざとそこへ向かわないようにしたとしても、おそらく強制的に向かわせられるであろうことも、薄々気づいていますので、迷わず向かいますw
うつ病の回復への道のり(休職とリワーク)。
この文章は、わたしが投稿したNewsPicksの毎日新聞の以下の記事のコメントに加筆したものです。
産業医の小橋 正樹様よりコメントでご紹介していただきました!
小橋さまからは、患者としてのわたしの意見を現役の医師としての立場から紹介していただいたということで、とても心強く感じています。
この場をお借りして再度御礼申し上げます。
大変ありがとうございました。
◆以下コメントです↓↓↓
わたしはもうすぐうつ病歴18年になる患者です。
しかし、最近では回復の状態を維持しながら生活を送ることができています。
自分でいうのもなんですが、ここに辿り着くまでに、それはそれは大変な苦労を重ねて参りました。
主観的には何度も死を意識するほどで、体感的には体が消えそうになる感覚を何度もなんども味わったものです。
苦しいなんてことばでは表現しようのないほどの苦しみ。
そのときにわたしは、まるで世界にわたし独りしかいないかのような激しい孤独感に包まれていました。
◆
このようなわたしがうつ病から回復するきっかけとなったものの一つに、
『うつ病リワークプログラム』
があります。
人生で何度目(大小あわせて一桁では足りないほど体験がある)かの再発したときつながったのがこのプログラム。
主観的には藁にもすがる思いで通いました。
これまでは薬中心の治療を受けており、何度も再発を繰り返すものだから
「医療の助けはほどほどに、なんとか自ら力で病を克服しなければもはや生きる道はない」
という思いから、精神分析医のもとに通ったところ病院側の理由で打ちきりとなり残念な思いをした経験もあります。(しかし、フロイトの思想に出会うために与えられた体験だったと、今となってはわたしの人生の中でこのように位置付けています。)
家族はいますが職についてもすぐに再発を繰り返すため半ば家族からも見放されつつもお金に困る状況。
独り暮らししていた過去には自己破産も経験しました。
経済的に満足のゆく生活を送ることが難しいながらも、無料で臨床心理士からカウンセリングを受けられる場所と廻り合い、カウンセリングを受けたりしつつ、心理学やうつ病、パーソナリティ障害や発達障害などの本を読み漁る日々が数年続きました。(ここには今でもお世話になっています。)
過去のトラウマ(決して派手ではない出来事だとしても当事者にとってはトラウマとなり苦しむこともある)と向き合うということがいつしか生活の中心にあるようになり、抜け出るときにしても激しい苦しみを体験せざるをえないのに、ある程度の生活費を賄うために仕事にも通いつつ。
しかし、仕事は長続きはしなかった。
単なる日常がフラッシュバックの嵐と化したわたしには、自分の力ではもはやどうしようもない状況にまで追い込まれていました。
◆
そのような中、精神科のデイケアで立ち上がったこの『うつ病復職支援プログラム』と繋がることができ、回復状態を維持しながら生活を送ることができているのです。
多少おおげさかもしれませんが、もはやわたしにとっては奇跡に近い。
無様にもがき苦しみながらも生きることは決して諦めずにいたからこそ、神様からの助けを与えていただけたのかもしれないとさえ感じるほどです。
◆
さて、記事にある、
【再発に伴う病気休暇の再取得】
の問題。
これについてわたしの経験を踏まえて患者サイドから申し上げたいことは、
『うつ病は正しい知識と人それぞれの症状にみあった対処方法を身につければ病気を抱えつつも再発を抑えながら生活を送ることが可能である』
ということです。
主観的には多少ハードかもしれませんが、患者が自身と向き合うことで自ら問題に気づき、それに対して明確な対処方法を与えられる環境が、わたしの通った『うつ病リワークプログラム』にはありました。
具体的には
・うつ病という病を学ぶための心理教育
・集団認知行動療法(わたしの通った精神科病院ではマインドフルネス)
・集団や単独で行うオフィスワーク
・軽スポーツやヨガ
などなど、これだけではなくプログラム全体を通して自身と向き合える環境が医療という安全な枠組みの中で提供されています。
↓わたしの通った病院ではありませんが参考までに。
▽リワークプログラムに関するデータと体験談/メディカルケア虎ノ門
http://www.medcare-tora.com/ramp/data.html
◆
職場目線で考えた場合にはまた違った対応策が浮かび上がることでしょう。
この問題への取り組みが、ひいてはこの課題多き日本を救うきっかけになることを祈りつつ、一患者としての体験談とさせていただきます。
わたしにとっての性別とは。
最近、よくわたしの目の前にあらわれる現象から、
『生物学的なものや特定の文化に規定されない性別の在り方』
を考えさせられている。
詰まるところ、
『生物学的および特定の文化に規定されない、わたし(やあなた)の個性が性別よりも優先されてもいい』
だろうし、縛られることもないんだなと、そのような先入観から解放されたかのような爽快な気分である。
ステレオタイブに縛られない形としての性別の在り方に気づかされたというお話し。
◆
わたしは男である前にわたしという一個人である。
生物学的には染色体の関係で男性の機能を持つ体を所有しているにすぎない。
文化的にも男性という外見が持つ印象から、男性の役割を要求されることになるだろうが、それはそれとして受け入れたい。
しかし、それが全てでなくともいいのだな、と。
◆
実際にわたしは内面には大きな女性的な部分があります。
これは、実際にわたしのトラウマ的な体験を通してグランドマザー像から想像して現実の女性たちから理想的な母親像を類推し、自らの内面に作り上げながら、自助的に生きてきたようなところがあります。
んで、幾人かの知人からよく、
『まっしゃみーは女子みたいやな!』
ということを言われてました。
既にわたしは上に書いたようにわたしの女性的な部分の存在を発見しており、なぜなのか?というストーリーについても自分なりに理解していますから、一般的に理想とされる男性像とのズレから生じる傷つきはほぼありませんでした。
わたし自ら自覚してるのです。
とはいえ、若干違和感もあったのは事実ですけど、しかし、わたしはわたしでいいのだな、ということを最近の体験からもより確信に近づいている感覚が増している。
◆
まー、しかし、恋愛対象は女性ですのでw