うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

人は本当に『分かった』ときは涙する

人は「自分のストーリー」で苦しむ… 人生をちょっと楽にするヒント

つい最近までオレも「頭で合理的に理解する」ことが「分かる」ってことだと誤解してた。

実はさ、本当に心の底から、『分かった』ときってさ、涙が流れるんだよね!

喜びとかそういったものに似た感情なんだけど、悲しみも混じってるというか後悔(間違いや失敗体験)や苦労の上に立ってるっていうか、でもとても“生きてて良かった感”に満ちている。

あと、何でわたしたちは合理的に理解しようとするかって言うと、端的に言って『生きるため』。
『周囲の世界を自分なりに理解しておく』からこそ、『いかに生きるか?』ということを自ら創造できる。

しかし『生き方のモデル』になる他者(場合によっては内面的な部分)がいる場合はその生き方を“理解”し“真似(内在化)”することで、創造というものと置き換えられる。

個人にとって、生き方のモデルがいなかったり途中で喪失したりするとアイデンティティが不安定になり再構築する必要に迫られる。
この体験はこう表現するよりも、それはそれはとても壮絶だ。
この状態に陥った方たち(わたし含む)は、読書などをして猛烈に学ぶ時期がある。
なぜ猛烈に“知る”試みを続けたのか振り返ってみたときに、やはり上に書いた
『生き方を再び創造しなおすために、これまでの先入観を捨て学びなおす必要があったから』
だったのだなということに気づく。

わたしも数年前『夜と霧』や『ロゴセラピー』を読みましたがフランクさんが、
「生きることは人生の問いかけに答えることだ」
とおっしゃっていたことがようやく分かってきた。

常にわたしたちは自らを超えた存在によっていかに生きるか試されている。
それは、他者を通して問いかけられることもあれば、または他の動物や自然、もしくは機械などの無機物を通して届くこともあるでしょう。

古来より日本人は、
『全てのものに神が宿る』
ということを見いだしていた。

要するに、フランクルさんのようなホロコーストで苦しんだ体験での気づきのレベルと同じレベルのことが既に文化的に根付いていたということが言えるのではないかとわたしは感じる。

そして、わたしたち日本国民はこのような個人の生き方にも影響を及ぼすようなこのような文化を受け継ぐことができる。

過去の人々が狭く資源の少ない我が国日本で切磋琢磨して生きてくださった遺産だと考えると、何か尊いものを感じます。