うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

悪口の対処法

まー、悪口とはいかないまでも、親しい相手からスキンシップぽく軽くけなされるシチュエーションを使ってわたしは自らの許容量をよく測る。

普段より自分の中にある認めがたい劣等コンプレックスに無力を認め受け入れて許しておく。
じっと独りでいるときに浮かんでくる幾多の自虐的なアレ。
アレの正体は、いわゆる“超自我”から送られてくる否定的なメッセージ。
日々浮かんでくるアレをあらかじめ受け入れて、許しておく。
戦わずに無力を認めるってことだね。

そうすると、ちょっとやそっと悪口を言われたぐらいでは、受け流す以上にその悪口を「あー、そういうところあるある」とすんなり受け入れられるようになっている自分がいることにふと気づく。

ここからより一歩進めて、自らの内に見いだした弱さを克服するために既に日々行動している、という試みをしていたら鬼に金棒。
相手の悪口に対し心の中で「それ、既にやれることやって対処してるぜ、参ったか」という多少強気な態度ですが、悪口言われているのに優越感すら感じちゃう状態になれる。
そんなとにはワハハと余裕の笑顔でありますよw

その試みが一定の効果を見せるところまで進むと、更なる余裕でニヤリと薄ら笑いすら顔に出る。
そして、そこら辺まで来ると自らの劣等感は既に解消し統合されていることになり「あー、相手の中に認められない劣等感があり、それに向けて発しているメッセージなんだな」という認識を持って温かい眼差しを送ることすら可能。

悪口を言ってくる相手を逆に労るぐらいの愛嬢で包み込んであげられることでしょう。

「あー、それオレ既に取り組んで解消してるから、君にも出来るからチャンスあったらやってみようよ」
と、こんな思考。

実は、弱さや劣等感があればあるほどに生きづらさも大きくなるものだが、それらを受け入れる術を見いだすことができれば、あらかじめ既にそれらの弱さを受け入れておくことができますから、要するに弱さが強さへと気づいたときには転嫁されている、という不思議なことが起こる。

完全にできなくてもいいので、練習してとくと生きづらさが軽減されるのでオススメですよ。

何故か知らないけど劣等感や罪悪感まみれだったわたしが生きやすくなったんだから間違いないです。

新しい人生の始め方

50歳以上しか採用しない会社の社長が言った、「人生の変え方」 | Books&Apps

引用↓
> 社長 「ここまで、だいたい皆5年かかります。でも皆、見違えるようになりますよ。」

これ、わかるわかる。
オレもだいたい5年ぐらいかかったけど、自信ついたってことに最近気づいた。

オレの場合は劇的なまでの精神的な退行現象に見舞われ、他者に対して常に見捨てられ不安レベルの恐怖を感じるところから丁寧にやり続けて対人恐怖をあらかた克服したところまでやった。
わたしの過去のトラウマの傷の修復も兼ねたアイデンティティ再構築の試みでもあったのだけど、結果的にうつ病も回復を維持しているという実績も込み。
だからなのか、数ヵ月前に『人生生ききった感』で満たされたことがある。

だからわたしがよく使う表現、
『お金も定職も何もない貧乏だけど、生きていることが幸せ』
という実感があるんですよね。

しかしながら、これはわたし一人では達成しえなかったこともまた事実。
フロイトさんの精神分析から派生した心理学的な知見が強力な支えになったし、相談機関でセラピストさんたちからもヒントをいただき、医療機関のスタッフの方々にも大変お世話になった。
なにより現実でわたしに試練を与えてくださった方々にも感謝しなければならない。

今でもその延長線でやっていて、読書で知識を得たり日常を通して対人関係におけるコミュニケーション術を磨いたりすることがもはや生き甲斐です。

とはいえ、ここにたどり着くまでには、社会人最初の年にコミュニケーションに対する大きな葛藤と直面してから足掛け18年もかかった。
コミュニケーションを重視する会社でノウハウがあったにも関わらずわたしはそこから学ぼうとするどころか、逃げ続けてきた、という反省があります。

しかし、この“逃避”も無ければ今がなかったと言えますから、わたしにとってこの18年という年月は必要なものでした。
それだけ苦悩が深かったということです。
だけど、わたしは悩みきった。

ま、わたしなりに小さいながらやっています。
豪語してる印象を与えるかもしれないけど、未だにコミュニケーションは下手くそだよw
気質的に気弱なところは変わりないから、長続きしないしさ。
けどこのことも加味して自分なりに工夫してやってるつもり。
ということも含めてこの一連のプロセスがわたしにとっては“創造的な試み”なのです。

だから“仕事”という与えられた創造的なプロセスを生きる環境が無くとも、上に書いた一連のプロセスを生きることそのものがもはやわたしにとっての仕事(生業)であると言えます。

一言で表現すると、
『自分育て』
ということに尽きる。

しかし、実はこれだけでは終わらず、同時に、このプロセスから得たノウハウをもってわたしは他者と関わることをしていますし、おこがましいながらも他者の成長のきっかけになるべく意識して行動もしている。

どうじゃ、ぬかりなかろう?w
組織でやってるわけじゃないから、取り入れた新たな学びを現実の行動に適用するのなんてすぐだよ、ほんと一瞬、すぐ次の日からぐらいのインパクトw

ここまで自ら考え行動に移せるということは、既に自立していると言えるのではなかろうか?
周囲の評価などどちらでもいいのだけど。

単なるうぬぼれではなく、振り返ると客観的にもやったよなー、と思える。
全て手探りだったけど、実は一点の曇りも無かった。
自分でも驚いている。

しかしながら、人生より与えられたとても大きな課題を克服した安堵からか、生活に張り合いがなくなり腑抜けてきたのは考えものだw

怠惰なんだよなー。

新たなチャレンジが必要だということだね。
っていうか既に次のチャレンジも見えていてやり出そうとしている最中だった。
っつーか、一部既にやってんじゃん、オレ。

しかし、心細さからすぐに欲望にまみれてしまい、現状では満足できなくなってしまいがちなため、実は与えられていることの方が多いにも関わらずすぐに欲求不満に陥るんだなー。

という自己分析(・ω・)
やけに冷静な怠け者です。

TEDトーク◇築くべき未来はすべての人を含んでこそ価値がある@ローマ教皇 フランシスコ

この TED トークを見て、あなたも興味があるのではないかと思いました。

築くべき未来はすべての人を含んでこそ価値がある
https://go.ted.com/Cy5D

お気に入りのプラットフォームで TED トークをご覧になれます。詳しくはこちらをご覧ください:https://www.ted.com/about/programs-initiatives/ted-talks/ways-to-get-ted-talks

TEDのローマ教皇のプレゼン。

ここ数年のわたしは、彼の言う、
『希望を存続させる一人』
にならんとすべく生きてきたようなものだったなと、彼の話に耳を傾けながらしみじみと思った。

小さき存在ながらもわたしなりにね。
周囲を見渡せば殺伐とした過ち多きこの世界。
しかし、そのような“過ち”を通して世界はわたしたちに
『わたしたちにとって、正しい行いとは何か?』
ということを気づかせてくれるきっかけとなることでしょう。

そして、そこで気づいたことを我がものとし、小さいながらも行動にしてゆけばいいのだとわたしは考えますしそのように生きようとしています。

世界はまだ捨てたものではない。

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うつ病からの回復の体験談(内面的なプロセス)

別のところに投稿した文章。
これは、わたしにとっての体験談であり分かち合いの一種。
これを続けることにより、わたしは生きている実感を強くする。

↓↓↓

はじめまして。
承認ありがとうございます。
うつ病を煩い18年目に突入しました。

苦しいながらもなんとか生き続け、うつ病を受け入れようとし出したあたりから徐々に回復に向かっています。
期間にして数年間。
その間、いつしか自分なりに様々なことに取り組んでいました。
そのうちに“自分が何者なのか分からない”苦しみから解放されつつあるようで『わたしは確かにわたしである』という感覚が増し、落ち着きを取り戻しています。

大小合わせて10回ほど再発を繰り返していて、その間薬を勝手にストップして悪化してみたり、薬に関しても様々な体験をしたものです。
しかし、ありがたいことに今では薬を飲まずにどうにかコントロールできている自分がいます。
けれど、心構えとして体調が悪化するようなことがあったらまた処方してもらう準備はあります。

不思議なことに、殺伐とした状況の中にも助けとなる人や出来事が現れ、信じきれないながらももはやそれしかやることが無くなっていて、そういうことの連続の中で生き長らえています。

怒りや悲しみなどそれは大きな感情の荒波に見舞われたものですが、大袈裟かもしれませんが振り返ってみると今ではまるで“うつ病”の神様から多くの体験が与えられ、数々の深い学びを与えていただいたのかもしれないな、と、思うことがあるほどです。

苦しい現実には変わりありませんけども。

今のわたしがここにこうして生きていることはまるで奇跡のように感じる瞬間が増えてきました。

生きていることが苦痛で消えたくてたまらなかったあの頃。
その先にこのような場所があると過去のわたしに伝えたとしてもきっと疑うことでしょう。
しかし、疑うことにもきっとわたし(やあなた)にとってきっと意味があることだということも含めて、過去のわたしに伝えてあげたい。

生きることはつらく苦しい。
ときとして死を意識させられるほどの苦しみを味わうことの方が多いかもしれません。

しかし、生きることを諦めつつもどうにか生きる選択を選び続けて欲しい。
自信や確信などなくともいい。
信頼できる相手が誰一人としていなくとも。
わたしは、世界に一人で生きているかのような孤独の淵に追いやられたことがあります。
辛く苦しいなどというものではありませんでした。
(書きながら思い出し、ほんのり涙が出ました。)

しかし、わたしは生き続け、そして生かされた。
ほんの少しのか細い生きようとする力に来る日も来る日もすがりながら。
生き延びられるかどうかは問題ではなく、全てを失ったところからがわたしにとって始まりだったのです。

振り返ってみると、自らの意思でどうにかしたというよりは、わたしの中にある命の働きのようなものに委ね始めた瞬間だったなという風に思います。

読んでいただきありがとうございました。

うつ病回復のためにわたしが取り組んだこと

今日もわたしの個人的な話しに耳を傾けていただける機会に恵まれたことに感謝です。

話すことでわたしはよりうつ病というものを自らのものとして受け入れることとなり、より回復へと近づくことができます。

わたしなりにうつ病という病と向き合おうと決意した(というかもうそれしか無くなり、むしろ決意させられたのでありますがw)とき、当初は何をどうしたらいいか見当もつかず相当苦労したものです。

何をしたかというと、
▽心理学などの本を読み漁り、自分というものを知る材料を頭に詰め込んだ
→決して前向きにやったわけではなく、現実逃避も兼ねていたし、自らが依存体質であるということを見出していたので、ならば本に依存しちゃおう(臨床心理士さんのお墨付きw)ということでやっていた。

参考までに、
・パーソナリティディスオーダー(一般的にはパーソナリティ障害)
愛着障害や愛着理論など(幼少期の養育者との結びつき、アタッチメントの考え方)
エリクソンのライフサイクル理論(要するに”アイデンティティ”とは何ぞやってこと)
発達障害ADHD
などなど、ま、「うつ病とは何ぞや?」ってことを自分なりに理解するためにいつしか読んでいたものたち。

番外編としては、
エニアグラム
などは今でも時折り参考にしてます。

▽日常(仕事含む)を通して対人関係の苦手克服のために一人せっせと取り組んだ
→単なる外出が恐怖に満ちていましたから、簡単なあいさつから始めざるを得なかった。少し専門的にいうならば、精神的に大きく退行していましたから、育て直さねば先へ進めなかった。

▽自らのライフストーリーを棚卸しするように丁寧に見直した(アイデンティティ再構築)
→たとえば「あのとき平気な顔してたけど本当は怒りを感じていた」というような感情を掘り起こすようにしてたかな。ま、勝手に出てくることがほとんどだったかも。いつしかSNSにこうして書きながらやっていた時期もある。

利用したツールの一つに、悲嘆と向き合うための
グリーフケア
の考え方が役立った。

全部、いまでもやり続けています。
これは自らやれる範囲でやっていること。
わたしは、これ以外に、医療や福祉のお世話にもなっています。

医療からは、
認知行動療法(特に行動活性化)
・マインドフルネス
を学び、日常に生かしています。
あと、対人関係のトレーニングである
・SST(ソーシャルスキルトレーニング)
・アサーティブコミュニケーション
なんかも体験させていただいた。
今は薬を飲まずに生活していますが、必要であれば薬の処方もしていただけます。
ありがたや。

一度は医療に不信感を抱きつつ、それがバネとなり独学への道が開かれ、しかし医療を信頼する気持ちも持ち続けることが出来ましたから、同時に医療のお世話にもなっています。

あ、うっかり忘れてたw
自助グループのミーティング
アダルトチルドレン自助グループ。基本的に言いっぱなし聞きっぱなし。単純ですが、アイデンティティの再構築や他者への信頼感の回復などにつながってます。単なる言いっぱなし聞きっぱなしの分かち合いなのに、これが奥が深いの。見落としがちなことだと思うよ。

至るところで学びにつながっていて、ほんと言いようによってはまるで、
うつ病大学』
にでも入学したかのようなインパクトがあります。

健康も仕事も失った。
しかし、わたしにはわたしを回復のために導く仕事が残された。

今では『ただ生きる』ことがわたしにとっての創造性発揮の場であり、今では生きることそのものとなっているとも過言ではなく、そもそも生きていることがこういったクリエイティブな試みと融合していて、充実してますw

なんてことはない、本当にただ生きているだけで楽しいw
金も無ければ仕事も無い、下世話な話しだが女もいないが、しかしただ生きているというだけで心の底から喜びを感じられるということの尊さ。
こんな日が訪れるとは夢にも思っていませんでした。

だから、感謝せずにはいられないのです。

頼れるリーダー像とコントロール

blog.tinect.jp

引用↓↓↓
> -今日は、どのように気持ちを落ち着かせて、立て直していったか
>
> 浅田真央:いろいろあったけど、1つずつ今までもクリアしていったので、今回のこの試合もジャンプ1つ1つを、クリアにしていきました。

わたしはいつしかこういうことを確かめるようにして生きているんですけども、↑の逆風の中でもこの境地に居られるようになるためには、自らの人生の中で似たような体験を通して何度も繰り返し続けることによって、怒り悔しさなどの感情的な反応は置いておき、『今できる現実的な行動の積み重ねが具体的な変化をもたらす』、ということを見いだせるようになっておくとベター。
感情に対する手当ては後からでもやれる。
リアルタイムに対処するのもいいけど、われわれの生きる日常ではそれに労力を注げる時間的なリソースは限られている場合がほとんどなのではないかな。

厳しい現実に崩れ落ちそうになったら、他者のそのような態度と接することによって力を得るのもまたいい。
わたしもよくやる。

更に引用↓↓↓
> 他人に何かを命令してやらせたり、自分の存在をアピールするのが「リーダーシップ」だと勘違いしている人は、少なくありませんが、こういう「いつも変わらない人」こそが、「苦しいときに頼れるリーダー」なんですよね。

> この3人のリーダーたちの共通点は、「結果が出ないとき、厳しい状況に置かれているときでも、怒りや無念を露わにすることも、周囲の沈んだムードに流されることもなく、ただ、そこで自分がやるべきことを、いつもと同じように確実にやっていく」ということです。

この態度を身につけるためにまずは、『現在のわたしの使命』を見いだしておければベター。
使命だと感じることはその時々によって変化してもいい。
それが念頭にあれば、心が乱れてもまたもとに戻る力が働く。
昨今流行りのことばをあてがうと『レジリエンス力』。

それと、他人に何かを命令してやらせようとする背景には、『他者を意のままにコントロール』したい願望が潜んでいることがある。
それは、現状満たされぬ自我を補うべく、生まれる他者への依存的な執着だとも言えます。
そもそもこのような動機が薄くとも、他者へ命令するというコントロールの行動をとることにより、執着が生まれるということもある。
どちらにせよ、これが常態化してしまえば、依存関係に発展していまい、個人も組織も不幸の道へと歩むことは明白です。

なぜかというと、思い通りにコントロールしたいという意思があったとしても、そんなことは現実的には不可能だからねw
表面的にそのようになってたとしても、それは建前であり幻想。
そのような状態をもって、満足しちゃうのもた危険なの。
なぜならば、コントロールされた方につのるは不満ばかり。

それに気づいた時点ですぐに他者をコントロールするこめはやめること。
見かけ上の権威がある人ほどこのことには注意深くあろうとしなければならない。
このことは、ときの権力者の犯した過ちによって、既に数々の歴史が証明していることでもあるのです。
時間軸や規模が違えどその組織を構成するのは、われわれと同じ人間であることには変わりはない。

精神的に未熟な人ほどこの罠に陥りやすいですから、ご注意あれ。
っつーかこれぐらいわかんねーのならリーダーやんなよ、ってぼやきたいぐらいだぜw

わっはっは。