うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

簡易モバイル。

f:id:zxmisia:20170320214907j:plain

簡易モバイル。

なんかさー、たまに急に落ちるw
グラフィックの処理重くなると、CPU過負荷で落ちるぽい。
まー、しゃーないな。

動くだけマシだし、値段は安いがわたしにとってパーツを全て別々に撰べるという簡易自作マシン的な位置付けで、楽しい。

こういうこと、頭で考えるのは得意だったけど
『価値は値段だけで決まるものではなく、自ら決めるものなんだ!』
ということを実感している。

人生強制的にリセットされてから、積み上げている最中なのです。

強制的に冷やすのも手かもなw

Webのこと。

ワードプレスとかCSSとかできる人いたら金出してでも教えてもらいたい気分。
ぜひ、スーパーバイザーも兼ねて欲しい。
やれることはやるけど、やっぱ独りじゃ心細い。

そのためにもかせがにゃなー。

この年齢になってようやっと内発的動機が育ってきたw
いやー、ここまで育てるの、ちょー大変だったぜw
年単位だよ、それなりに生活しつつ数年かけてやっと!

しかも、ベースにある大きな動機はもはや枯れまいて。

しかしながら、現実的にはうつ病再発のリスクと、刺激に対して敏感な体質(HSP的)故に体調優先路線でゆきたいものだぜ。

わたしにとっての性別とは。

最近、よくわたしの目の前にあらわれる現象から、
『生物学的なものや特定の文化に規定されない性別の在り方』
を考えさせられている。

詰まるところ、
『生物学的および特定の文化に規定されない、わたし(やあなた)の個性が性別よりも優先されてもいい』
だろうし、縛られることもないんだなと、そのような先入観から解放されたかのような爽快な気分である。

ステレオタイブに縛られない形としての性別の在り方に気づかされたというお話し。

わたしは男である前にわたしという一個人である。

生物学的には染色体の関係で男性の機能を持つ体を所有しているにすぎない。

文化的にも男性という外見が持つ印象から、男性の役割を要求されることになるだろうが、それはそれとして受け入れたい。

しかし、それが全てでなくともいいのだな、と。

実際にわたしは内面には大きな女性的な部分があります。

これは、実際にわたしのトラウマ的な体験を通してグランドマザー像から想像して現実の女性たちから理想的な母親像を類推し、自らの内面に作り上げながら、自助的に生きてきたようなところがあります。

んで、幾人かの知人からよく、
『まっしゃみーは女子みたいやな!』
ということを言われてました。

既にわたしは上に書いたようにわたしの女性的な部分の存在を発見しており、なぜなのか?というストーリーについても自分なりに理解していますから、一般的に理想とされる男性像とのズレから生じる傷つきはほぼありませんでした。

わたし自ら自覚してるのです。

とはいえ、若干違和感もあったのは事実ですけど、しかし、わたしはわたしでいいのだな、ということを最近の体験からもより確信に近づいている感覚が増している。

まー、しかし、恋愛対象は女性ですのでw

私がこれまで生きてきて思うこと。

私がこれまで生きてきて思うこと。
 
スピリチュアルであれ宗教であれ科学であれ医療であれビジネスであれ何であれ、人々に<不安>や<恐怖感>を植え付けようとするものは信用に値しない。
 
それはつまるところ、彼らの営みを有利(より多くの利益を得る、儲けのためなど)にするためのエゴである。
 
世に問題解決というサービスを提供し続けるという観点からすると、もちろん利益も大切であると言えましょう。
 
しかしながら、そもそもクライアントの抱えていなかったはずの<不安>や<恐怖感>を植え付けてまで利益を得ようとする態度に、わたしは嫌悪します。
 
実際、わたしが弱っていた過去に幾人かの知人らから宗教の勧誘を受けたことがあり、そのような態度でしたのでお行儀よかったとは言えませんが、はっきりと断ったことがある。
 
そのときに普段もの静香なわたしが目の前の彼に向って思わず語気を荒げて放ったセリフは、
「人々にそもそも無かった不安や恐怖を植え付けたり、もともとあったそれを広げて煽るのは宗教って言わないんじゃない?宗教だったらその逆で人々の苦しみを純粋に取り除こうとして手を差し伸べるものじゃなかったのか?!」
と、こんな風に怒りをあらわにした。
(その後、わたしの考える神様像について彼にメールで送ったことがあります。返事は特にありませんでした。)
 
 
宗教やスピリチュアル的な世界観をわたしは否定はしない。
むしろわたし自身、思考は超論理的だが感覚的にはスピリチュアル的というかファンタジーともとれるような世界に住んでいると言える。
(わりと器用に両方の世界を行き来できるのであるが、バランスを取って生きるのが大変なのじゃ。)
最近思い出したんだけどね。
 
うまくは言えないのであるが、スピリチュアル的な体験をよくするんだけど、そこから現実に照らして得られる教訓というものは確かにあります。
 
そして、人々が何を信じ何を現実だと感じるのか?ということについても、それがたとえスピリチュアル的な世界観であったとしても、それが本人にとってのリアリティのあることであれば、それはその通り本人にとっての『リアル』なのだという風にわたしは自分自身についても他者についてもこう考えている。
 
わたしはわたしであるからあなたもあなたである。
同じ人間であれ、物理的な肉体は別々が故に、感性は別ものであり、よって感じることは考えることもまた違う方が当たり前であり、そして多様であっていい。
 
良きにつけ悪しきにつけ選ぶのは本人である。
そのどれによって幸せになろうとも不幸になろうとも、それはその本人の世界に影響を及ぼすものであります。
 
しかし、選ぶのならあなた(やわたし)にとっての『本物』をぜひ選ぼうとし続けて欲しい。
(このとき、完全なる自信を持たず、どこか「本当にこれでよかったのかな?」と謙虚な気持ちで日常を通して検証を続けることもまた大切なことである。)
 
よく巷で言われるように、
『世の中に完全なる正しいことは存在しない』
のであり、であるならば、
『どれがあなた(やわたし)にとって正しいもと感じるものなのか、あたな(やわたし)自身が決めて選べばいい』
のです。
 
(わたしの感覚として思うことですが、『より全体性のバランスを持ち調和した形での完全』というものは存在していると思っていて、人格であれ何であれ目指すはそこなんだろうなと。抽象的であれですけども、ピンとくる方もいらっしゃるのではないかな?目指すは『調和』です、ハーモニーなの。)
 
「どっかの権威ある偉い人が言ってるから」とか「流行っているから」というのも、まあそれについて疑いの目を持ち自らが検証し出すというきっかけにはなるかもしれないが、正しいことの理由にはなりません。
 
 
自らの『心眼』を養い続けるとともに、周囲にいる本物を見分けられる人の助言を得るというのもまたいいでしょう。
 
私調べですが、なかなか多くはいらっしゃらないようですので、丁寧に他者と接してそういう人をあなたのまわりに見つけぜひ信頼関係を結んでおいていただきたい。
 
しかし、必ずいます。
年齢や性別、職業や権威のあるなしに関わりませんので、ご参考までに。
むしろ、権威や出世欲などには無頓着だったりしますし、一見みすぼらしいような外見を持っている人の中にもね、実際にいたりする。
 
 
いつしか話がそれてゆきましたが、いつものわたしだとしてぜひご愛敬をば。