うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

今「死にたい」と考えている方へ

その気持ち、よく分かります。

こんな歌詞がありました。
「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」
確か森山直太郎だったと思います。

あと、以前、精神科医名越康文さんの「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」というタイトルの本を思わず手に取ったことがあります。

それと少しハードな話しになっちゃいますが、わたしの知り合いの高齢の方が障害を負ってそれを苦に、とうとう死のうと決めて車で出たところ、激突する前にエンジンが止まったんですってー!
それを聞いたとき、いくら死のうとしても死ぬべきときまで生かされることになるんじゃないかなと感じて。
それをその場で言葉で彼に「ひょっとしたら今生でまだ果たすべき役割があるからこそ命があるのかもしれない」と分かち合ったところ、おおいに共感してました。
ちなみに彼は半身不随でも車を運転して遠出しますし、独り暮らしもしてます。
エネルギッシュでハイカラな野望尽きないおじいさんです。

または別な方で、5歳の頃に首つろうと木の枝に縄つけて吊ろうとした瞬間、足場にしていた椅子が壊れて生きることになった人も。

この体験を持つ二人ともたまに会ったり電話したりするほど近い仲で、今ではわたしが心から尊敬できる方たちです。

それと、長くなってしまい恐縮ですが、わたしは家族を自死で亡くしましたので自死遺族です。
その家族の死が頭の片隅にいつもあり、苦しみの極地にいながら生きることを選び続けることができたからこそ、今でもまだ生かされています。
その家族の死の悲しみとは既に向き合い尽くしており、今ではいつでも心の中で悲嘆の体験を通して大切なことを教えてくださった存在としてつながることができます。
先日、たまたま生で聴く機会に恵まれ涙をこらえきれませんでしたが、「花は咲く」のイントロからうるっとくるんですけども歌詞の『今はただ愛しい あの人を思い出す』でこの家族のイメージが浮かんで涙が出るんですよね。

自死については様々な意見がありますね。

自死がダメなことだとか周囲に迷惑をかけるから死ぬべきではない、などとは言わない。
実際に死んでしまうほどの苦しみを抱えていたのだから、あれほどの苦しみの中で生きた時間の方があなたにとっての生きたという証だと思います。
むしろ、あんたあれをよく生きたねと、その命に報いたい。

わたしだったら、本当はあなたの命も一人の人間として価値あるものですから自死してもらいたくはないと伝えたい。
実際にわたしも苦しみの中でさえ実は愛は与えられていたのではないかということに気づいた。
だから、いつかそのことに気づくときまで死にたい気持ちを抱えながらでも生きる努力を細々とでもいいから続けて欲しいと伝えたい。
なぜならば、わたしが実際に日々そうして生きてきたし、今の命はそれをしたからこそ生きてる命です。
しかし、辛いなんて表現じゃ軽すぎるぐらいの内面的な痛みや現実を生きることも同時に苦痛の日々でしたので、まるで地獄に足を踏み入れたかのようでした。

それと、他者の死の悲嘆と現実的かつ具体的に向き合い、乗り越えるというよりはむしろその他者の死すら内面に宿しながら自らの命の一部にすることもまた可能です。
それも試行錯誤ながら取り組んだおかげで、やることができましたから、確信に近いものがあります。
大きな辛さや痛みを伴うことは確かで、時間もかかりましたし困難を極めましたが、自己流でもやるしか道はありませんでした。
人間であれば誰しもこの能力を持っていると自信を持って言えます。

わたし自身、生きることにとことん悩んだ過去があるから、今、命の有り難みの大きさが分かるし生きることが楽しくて仕方ない…と、いつかほざいてみたい(笑)

ま、今日一日生きられれば、また明日からもこの繰り返し。
もしもまた、生きることが嫌になるときがきたとしても、またそれをありのまま感じながら生きることでしか、もしかしたら生きられないのかもしれない。
あのとき部屋には弟が残していった『生きろ』と書いてあるもののけ姫のポスターが貼ってあり、数年の間、来る日も来る日も目についていてました。

与えられたこういう体験の積み重ねで生かされてきたんだなと、今更ながらに痛感します。

ま、今日一日が続けば振り返るといつか死ぬまで生きることになってるんじゃないかなー。

わたし自身のことだけではなく、人それぞれにして「死にたい」と考えるようになってゆく経緯は、表現は適切ではないかもしれませんがほんと彩り豊か。
ですから、それと向き合うのはその苦しんでいる当事者そのものですので、もしそのような相手が目の前に現れたのなら、ささやかながらわたしの体験を分かち合うことと同時に、行動化しないように細心の注意を払いながら、相手が相手のペースで自らの経緯(人生)を整理できるよう丁寧に耳を傾け支える態度を持てたらなと思うようになりました。