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うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた患者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

世界に一人ぼっちの孤独感

susumu-akashi.com

 

いきなりですが引用↓↓↓
> ある若い男性が自らの暗い経験を次のように記述している。
>
> 「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる……自分が存在しているのかどうかさえわからない……みんなは花の一部なのに、僕は未だに根っこの一部だ」(p133)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア

わたしも数年前に似たような主観的な感覚に包まれていた時期がある。
わたし的には、
『まるで世界にわたし一人しか存在していないような果てしない孤独感』
と、よく表現しています。

大切な人を亡くした体験にまつわる“トラウマ”に直面した後、これを体験した。
(しかし、シェアした記事にあるように生まれてからずっと虐待的な環境にあったわけではないですから、わたしの苦しみより虐待をサバイバルしてきた『彼ら』の苦しみの方がより深いであろうことが想像できます。)

そんなわたしも、本読む限りでは<愛着障害>に該当してるなと直感で感じたものです。
愛着パターンは<不安/恐れ>の混合型。
ま、混乱していたと言えるのではないか。(<混乱型>なんてあったっけ?あー、確か<無秩序型>なんてあった気がするな。それかも?)
パーソナリティ・ディスオーダー(パーソナリティー障害)でいうと<回避性パーソナリティー障害>に該当。

そして、ADHD(ADD)的で発達障害的である。
内向的か?外交的か?で言えば、『徹底的に内向的』でありかつときとして『社交的』なように振る舞うことも可能である。
極めつけに、わたしは医療機関からは、『うつ病』『神経症』『適応障害』『社会不安障害(いわゆる神経症)』という数々の病名を頂いてきた。

そんなわたしは古くて新しい<アダルトチルドレン>にもどうやら該当しそうだぞ、ということで『ACA』という自助グループに参加している。
(参加者でありつつ地域のグループの代表の役も担ってもいる。が、わたしは参加者であり対等。)

わたし自身ずっと自分に対して『内向的』だという認識を持っていたのだが、どうやら違ったようで、『内向的かつ外交的』という相反する特性が同居しているようであることが分かった。
昔から科学が好きで、学校ではITを学び職にも選んできたし、最近では自分の抱える問題と向き合わざるを得ない状況に追い込まれてから読み出した心理学とも相性がいいようだ。
なぜか知らないが理解できるのであった。
しかし、日常では論理的思考ベースに行動しておらず、直感的なものを便りに行動している。

男性に違いないし恋愛対象も女性ですが、知り合いの女性から『ほんま女子やなぁ』とリアクションをいただいたことがある。
そのときに購入したアクセサリー(ピアス、ブレスレット)やドリームキャッチャーに対して、恥ずかしながら心踊らせながら「きゃっきゃうふふ」してるメッセージを送ったときの反応である。
内面はとても女性的であり、母性のような包容力にあふれていてどうやら共感力にも長けているようなのだ。

わたしの自己紹介は以上w

シェアした記事の最後の章、
【理解を越えているということを理解する】
をぜひ読んでいただきたい。

引用↓↓↓
> サバイバーたちが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」としても、またどれほど高い文化の壁、理解の壁があるとしても、互いの文化を尊重できる人たちにとっては、国境を越えて理解を深め、心を通わせていくことは可能なのです。

わたしの意見ですが、日常においてもそもそも自分と違う人生を生き違う体験をしてきた他者を、自らの体験や知識を通して理解することは不可能だと思います。
同じ文化や地域、会社組織などある程度自分と似通ったコミュニティで生きてきた人たちのことは、共通点が多いからこそ理解できた気になっているだけなのです。
細かいところは、実は丁寧に対話を重ねてみると違っていたりするもの。
マインドフルネスのエクササイズするとはっきりと分かるんですけども、日常でも他者の感じたことと自分の感じたことを丁寧に照らし合わせてみると違うもんだなーということが実感できるのではないかと思います。
実際にそうなんですよ。

ですから、頭で理解しようとするには無理がある。
ではどういう風に理解するのが理想的か?といいますと、
『他者の体験は他者がリアルにそれを体験した実感として捉える』
という風にしてわたしは理解しようとしています。

これは、自助グループのミーティングでなされる『分かち合い』そのものです。

大切なのは、ある一定の価値観に照らして“否定”や“批判”はせず、他者の体験を他者のリアリティとしてありのまま受けとるようにすること。
要するに、相手を尊重するってことなんだ。
それができるには、自分のことも尊重しておかなければならない。
自分の体験をありのまま受け入れ尊重できるからこそ、相手のことも尊重できるようになるものです。

繰り返しになりますが、ありのままの自分を感じることができるからこそ、それを通して他者のこともありのまま感じることができるようになる。

実は他者を通して感じているのは、紛れもなく自分であり、だからこそ他者と体験を分かち合うことを通してわたしという人間の体験を補完することになります。
こういうことを繰り返すことで、わたしたちはより全体性を備えた人間へと成長することができる。

もしも、他者の体験に対して猜疑心や批判的な気持ち(怒り、恐れなど)がわいたとしたら、それは自らの無意識の中に受け入れがたい存在があり、それを通して他者を感じているということが言えます。
そのときは、飛躍のチャンス。
自分なりに深堀りし、どのような体験を通して何が傷ついたのか、自らを知り自らを助けようとすることを通して自らを許してあげるのです。
その傷付き体験に、無力を認め、そのときの感情を追体験して手放し、受け入れ、そして許す。

最初は大変ですし、そのうち大きな傷付き体験がフラッシュバックしてくることもありますから、圧倒されてしまうかもしれません。
しかし、慣れてくると、日常を通してコツコツとやれるようになります。
ここまで進めば、不満やストレス、何故かは知らないが感じていた罪悪感も減り、徐々に生きづらさも減ってくることでしょう。

そして、極めつけは、自らの過去と向き合い受け入れ弱い自分を許し続けるプロセスを通して、自らが何者としてこの世界に生み落とされた存在なのかにも気づけるようになるのです。

ですから、表面的には、
『自分とは違う他者をありのまま認める』
ということをやっているようでいて、実はより深い部分ではそういうことを通して、
『自分と出会う』
ということを無意識にやろうとしていたということなんですね。

そして、これは何を意味するかというと、
『自分にとって何が大切な価値観で、何をしたら幸せになれるのか?』
ということが分かるということなんですよ。

世の中には「自己実現とは何か?」とか「幸せになるにはどうしたらいいか?」とか「どんな目標を立てて実行したら夢が叶うか?」なんて情報が数多くあると思います。
しかし、誤解を恐れずに言えば、努力してそういうことをする必要はないということなんです。

特別なことをしなくても日常を通して簡単に誰でもできることを通して何をしたら幸せになれるか分かるようになるなんて、すごいことだと思いませんか?

『自らの弱さを直視し向き合う』
ということは多少ハードルが高いかもしれませんけど、
『他者を分かろうとする』
ということは今すぐにでも簡単にできるのではないでしょうか?

何もいきなり虐待を受けて育った人の体験を分かろうとすることはなく、手始めにもっと親しい相手から始めてみてはいかがでしょうか?
少しずつハードルを上げてゆけばいいのです。

続けていれば、必ず効果が出ますから。

もっと具体的に知りたいという方は、連絡でもいただければw