うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

悲しみに暮れる君へ

わたしは祖母の死が原因の悲しみが癒えず長年鬱積していた感情と数年前直面し苦しみました。

しかし、その悲しみと向き合い受け入れるとこができた今では、あの出来事の意味を自分なりに理解し、今に生かすことができている自分がいて驚きです。
当時はこのようなことは想像もしていませんでした。
わたしの力というよりは、人間にはそもそもこのような力が誰にでも備わっているのだなと確信するに至っています。

ちなみに、喪失体験の悲しみと向き合うのに非常に有効だったツールは『グリーフ(悲嘆)ケア』です。
本がありますから、一度目を通してみてはいかがでしょうか。
ネットで調べても出てくるかと思います。
実際にやれれば必ず回復するはずです。

医師の診断では病名がつきがちでしょうけど、喪失体験による悲嘆は人間として当たり前の反応です。
脳が生前と比較して関係性を整理するときの感情が“悲しみ”に他なりません。
これは適切に向き合うことで、人それぞれのペースで緩和されゆくものなのです。

ご自愛ください。

今、うつ病で苦しんでいる方へ

こんばんは。

わたしはうつ病歴18年を過ぎ、何度も再発を繰り返しては職を転々としましたが、ようやく昨年あたりから落ち着きを取り戻しています。

恐縮ですが、ここらか長くなります。

わたしの場合はと、前置きして、通院と投薬だけでは一旦は症状は落ち着くものの、再発を繰り返すばかりで途方にくれていました。
そんな折り、無料で相談してくれる機関(若者サポートステーション)を利用し、そこでは臨床心理士さんや他の相談員さんとカウンセリングをしていました。

ある日、相談していると過去の記憶(身内の死)から涙が流れたことがきっかけで、そこから一旦劇的に体調が悪化しました。
仕事もパートですが続けながらでしたが、不安定でしたから対人関係でトラブルを起こしがちでしたし、その苦しさから図書館へ逃げ込んでは心理学などを読み漁りながら現実逃避を繰り返す日々が続きました。

しかし、現実逃避のつもりで逃げていましたが、今の自分の状態を助けるかのようにして本が次々と現れていた気がします。そのときは生きるのに必死でしたから、気づきませんでしたが。
そのとき通院ではいっこうに回復へと向かわなかったということがあり、もう独学でなんとかしてやる!という気持ちで読んでいましたが、後になり一人でがんばるだけではどうしようもなかったのだな、ということに気づくに至りました。

そうこうしてるうちに、そのときの仕事を辞めることになり、介護の資格を取り、障害者の施設に就職するも半年ほどでうつ病が再発し、休職することになりました。
精神障害の利用者の方が多い職場でしたので、休職する前ですが上司から近所の精神科で今度始まる「復職支援のためのうつ病リワーク」というデイケアを教えていただき、よもやわたしが通うとは思ってもみませんでしたが、結果的に休職することになり、5ヵ月通いみっちりとうつ病の治療をすることになりました。
そこでは「飲む医療から学ぶ医療へ」というコンセプトのもとで、
うつ病理解のための心理教育
SSTソーシャルスキルトレーニング)
・集団認知行動療法
・マインドフルネス
を中心に
・ヨガ
・軽スポーツ
・集団/個人オフィスワーク
・グループでの軽作業
などのメニューで行いました。
認知行動療法やマインドフルネスは本やネットで薬と同じぐらい病気に効果があるということを知っていましたから、いつか実際に受けたいとずっと願っていたところ念願叶ったことになります。

また同じ時期に、ACAというアダルトチルドレン自助グループに通いだし、自身の体験を話したり他者の体験談に耳を傾けることにより、孤独を感じやすく生きづらかった自分なりの原因が見えてくるにつれて、不思議と肩の荷が降りるかのようにして心も体も軽くなるという体験をしています。
今でも毎週通っていて、直接的なうつ病の治療ではありませんけども、結果的に症状を緩和することにつながっている実感があります。

通院も数ヵ月に一度していますが、薬は飲まずに過ごしています。
しかし、再発のリスクとは一生同居して生きることになりますから、いつでも処方してもらう準備はできています。
しかし、医師の方針で薬は最低限の処方ですし、回復具合から飲む飲まないはわたしの判断に委ねてくださっています。

長くなりましたが、うつ病は回復することは可能です。
実際にわたしは回復状態を維持しています。

認知行動療法やマインドフルネスは本でも沢山出ていますし、レクチャーを受けたとしても理解していることが前提になりますから、読んでおくにこしたことはないかと思います。
ネットでも情報は出ていますが、本を手に取るのがオススメです。
日常に取り入れるまでいければベターかもしれませんが、お近くの機関でやられているところで実際にレクチャーを受けられたら受けてみるといいと思います。
わたしの場合は東北の田舎ですからそのような機関に通うことは半ば諦めて、見よう見まねで自分でやってはいました。
遠くの地方にある精神分析医のいる精神科に通ったこともありましたが、先方の都合であえなく通院を断念したこともありました。

しかし、死にたい気持ちや消えたい気持ちとも長い期間同居しましまが、あきらめずに生き続けていたらいつしか回復を維持している今があります。
ですので、無理せず自分なりの回復の道を諦めずに探し続けて欲しいです。

つらくなったらわたしのように逃げてください。
今では仕事をすることよりも、命の方を大切にしなければならなかったのだな、逃げたことにより今の回復があるのだな、と思えるようになりました。
うつ病になるぐらいですから、そもそも他者よりも必死にがんばって生きていたのです。
逃げたくなって当然のことだと思えます。

どのような本がいいかなどご質問などございましたら、いつでもお問い合わせください。
当事者として答えられることはいくらでも答えます。

長くなってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。

みなさまの回復をお祈りしております。

人生は何度でもリブートできる

「中年ニート」120万人、統計に表れない無業者 :日本経済新聞

ずばりわたしの世代。
そしてわたしもうつ病を煩い、自分なりに何度も社会復帰にチャレンジしてきた経験がありますが、困難を極めている。
今もまだ途中でありますが、あきらめつつも続けていたところ徐々に見通しが立ちつつあります。

周囲の人たちの支えに感謝です。

わたしの周囲にもちらほらとわたしと似たような境遇の方たちがいます。
驚くことに、一人は半ば自力でなんと統合失調症から回復し、今では就職して働いています。
先日、その彼と久々に会い話ししたところ、わたしと似た苦悩の深さを持っていて、とても深い会話ができて満足です。

しかしね、ひょっとしたら彼やわたしのような体験をしている人が記事にある「ニート」の中に含まれているとしたら、自己責任だとするのは些かハードなものがある。

わたしたちのように病気と向き合うことを通して、根気よく徹底して取り組むことができる人は限られているのではないか。
何も能力が高いということをアピールしているのではなく、むしろ社会に不適応をおこしていたのですから、むしろ逆。

それと、最近知り合った人にわたしと似たような体験をなさっていて、ニートな方がいらっしゃるんですけど、その彼がものすごい勢いで社会復帰に向けて動き出していることを現に目の当たりにしているところです。
若い方と比べると年代的に先が短かったり職歴に乏しかったりしますし、置き去りにされてしまいがちですけども、前に話した統合失調症の友人然り体験の質は深いですから、うまくその体験を咀嚼し受け入れられるまでに、心理的な面で成長を促すことができれば、社会にとって有用な人物へと変化するとわたしは確信します。

何せ、人生あげて失敗し続けているという体験を続けてますからね。
金には結びついていませんが、学びは深いですよ。

このような未来を二度と繰り返さぬためにも、彼ら(過去のわたし)のような人と出会うことがあったら、支えになることを続けてゆこうと思います。

わたしの体験がね、どうやら彼らの役に立っていて、彼らの再起動の原動力になるらしいの。

しかし、この体験も与えられたものだと考えると、感謝の気持ちになります。

ありがとうございました。

自死者に対する自己責任論の過ち

自己責任を求める成功者たちにつけるクスリ - HIROKIM BLOG / 望月優大の日記

いくら努力し頑張ろうともどうにもならないことは沢山ある。
これは、あきらめるための理由ではなくて限りある資源を有効に使うための知恵である。

なにかにつけて個人の責任に還元されがちな日本。
いったいどうなっちまったんだと、嘆かわしい。
それを言う人には
『あなた一人の力で生きているんじゃないでしょう』
と言いたい。

自らが苦境にあえいで何をしたところで事態が好転せずどうしようもなかった、という苦しい時期を乗り越えてきた体験があり、かつそれを乗り越えたのは自らの力ではなく周囲の力添えによるものが大きい、という認識を持っている人は、自ら死を選ばざるを得なかった人を責めることはせず、思いやりの気持ちを向けて魂を報いる選択をするだろうとわたしは思う。
どうあれ人の死というものは悲しいものだけれど、遠く離れたところからは悲しいかな現実感覚に乏しいため冷たい態度を取ってしまうのかもしれない。
ちなみにわたしは身内の不幸な死により、こういうことを学ばせてもらいました。

自分一人の力で何かを成し遂げられるという考えはとても傲慢。
何を隠そう過去のわたしのことです。

注意深く観察してみると、こういう考えを持っている人ほど、周囲にはサポート人員が多くいるものです。
そのことに本人が気づいて、そして周囲のサポートに対して感謝の気持ちを感じることができるかできないかで、人間性が試されていると言えるのではないでしょうか。

そろそろさ、
『死を選らばざるを得なかった人の身にいったい何が起きていたのか?』
ということを自らの考えや想像よりも優先して知ろうとしてゆく方向にシフトしたいものですね。

生きるために必要な関係性の話

私たちが生きていくために必要な関係性にはまだ名前がない――家族と社会の新しいあり方について - はたらく女性の深呼吸マガジン「りっすん」

わたしも「家族とは何か」ということに思いを馳せることがよくある。

以下引用↓↓↓
> これまでPIECESがつくろうとしている「しっくり来る名前がまだ存在しない関係性」について考えてきました。アーレントの「親密圏」という概念を補助線に引きましたが、まだその関係性に名前をつけることまではできていません。「家族」でもなく、「友だち」でもなく、単なる「他人」でもなく、「先生」でもない、この関係性。
↑↑↑以上引用
これに当てはめるものとして、例えば<仲間>ということばはどうだろうか?
親ではないが子どもの支えとなる対等な関係性を持つ人に対してだろうから、若干ズレてるかもしれないが、対等であることを通して心を開いて大切なことを相談できるようになると思うし、対等な態度は何よりも優先すべきことなのではないかなと。
年齢的に大人と子どもなど明らかに上下関係が発生しそうな関係性においては、特に意識して然るべきものだとわたしは常日頃から考えて、拙いながらも行動に移しているつもりではあります。

家族ではないがこれまで家族が担ってきたような親密性の機能を備えている、新たな関係性。
なかなかこれは最先端をゆくものだね。
わたしも過去の体験からこれと似たようなことを考えることが多い。
というかまるで同じかもしれない。
とても親近感です。

以下、余談です。

わたしの通う自助グループのメンバー同士では“仲間”と呼び合うんですけども、深い体験談を共有するという意味では、いつしか家族以上の関係性がそこに生まれることがある。
プライベートではほぼ関わりを持たないはずなのに、不思議と感覚的にはそうなってるんですよね。

だからこそ、わたしたちのような“孤独感”の中をどうにかサバイバルしてきた仲間たちが癒されることにより、存在が許された感覚が生まれ、生きづらさが取れ、性格も変わり、新たな関係性が構築されると共に、新たな人生の幕が上がる、ということを多くの仲間が体験しているのでしょう。
わたしもまたその恩恵を受けている一人です。

感謝。

うつ病と無気力や孤独感

うつ病は美しくなんかない」ある女性が明かした “うつ病であることの告白” に賛同集まる
http://rocketnews24.com/2017/05/31/903696/?utm_medium=partner&utm_source=gunosy

『無気力』はうつ病という“病気”の症状のうちの一つで、風呂に入る、歯を磨くなどの行動をとることが極端に億劫になる。
男性の場合はヒゲを剃るのが億劫になり、よく無精髭になりがち。
一見すると同じように見えるかもしれませんが、健康な人が感じる「面倒くささ」とは別物です。

あと、孤独感から来る悲しみ。
これも症状にある。
わたしの場合はこれによって涙はあまり流れませんでしたけど、切なさや寂しさというものが半端ではなかった。
このときにわたしの思考に現れたのが「消えたい」というもの。
消えてしまうぐらいの孤独感がこの思考を生んだのでしょう。
想像以上にハードなものがありました。

体の感覚的には、もはや半透明かのように感じるほど。
体の感覚も無いに等しく、後から知りましたがあれは現実感覚に乏しい“離人症(感)”そのもの。

その他、不眠に過眠、常にある漠然とした不安感、予期不安、感情の鈍麻、焦燥感、疲れやすさ、性欲減退、などなどのオンパレードで生きていられるものではなかった。

悪化したときは「死にたい」が出てきてやばかったですが、過去に与えられていたいくつかの体験が糧となり、なんとか耐えることができた。

今思うと、ハードだと感じていた体験に守られていたのだなと、あれはわたしの命を守るべく起きた出来事だったのだと、感謝しています。
二つあって、両方とも人の死がからんでいる。
そして、このことや他の人の体験談などから、
『他者の死によってもたらされた悲しみは自らの命の糧となる』
という教訓を得ました。

しかし、うつ病がもたらす症状は人間として正常な反応です。

なぜかというと、環境に対する不適応を起こしているということを知らせるための体からのメッセージだと考えられるから。
無気力になるということは、一旦活動を停止させることにより、環境が変化するのを待つという、わたしたち人間が大自然の中で生きてきた頃の名残だと、わたしは感じていました。

しかし、人間は環境の変化を待つばかりではなく、主体的に行動を変化させることにより環境を変えることができる生き物です。
ですから、どうにかして『新たな環境に変える』という方向に向かって歩き出すことが結果的に回復へとつながると言えるのです。

人によって原因は様々でしょう。
過労気味の人は休養の後に仕事量を調整する必要があるでしょうし、思いきって転職を考えるのも手かもしれません。
しかし、うつ病の際には前頭葉の働きが鈍ることによって判断力が極端に低下しますから、すぐに決断することはしないこと。
後からでも遅くはありませんので、まずは後回しにして休養を取ることに専念を。

わたしの場合、生き方を変えざるを得ないところまで堕ちた。
過去のトラウマによって対人恐怖(見捨てられ不安)があって、その体験を見つめ直し、新たな意味を見いだして再スタートしなければならなかった。
半ば孤独な作業でしたし、困難を極めましたが、振り返るとアイデンティティを再構築したぐらいのインパクトがありました。
しかし、生まれ直したぐらいの新鮮さがあるにはありますが、しかし、対人関係について一から学び直しつつ体験を積み重ねなければなりませんでしたから、大変でした。
今でもやり続けていますし、もはやこの作業は生業に近いものがあります。

生き方を変えた、というよりは、ゼロから再構築しなければならないほどだったんだよねw

ほんとね、今までの人生で積み重ねてきたこと全てがガラガラと音をたてて崩れたかのよう。
実際、上に書いたように一から感覚を調整しなければならなかったということが物語っているように。

精神的にも赤ちゃん返り(退行)しましたから、ほんと、生まれ直したぐらいのインパクトがあったと思う。

困難を極めましたが、あきらめずにやり続けていたら、不思議と助けとなるものが周囲に現れ続けています。

その前段階では、実はわたしは神に祈った。
宗教ではないところで使われている「平安の祈り」というものを当時の手帳に書いてことあるごとに読んでは祈った。

『神様お与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変える勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを』

当初はつらい現実から逃れるためだったんですが、思い返すとあれがターニングポイントだったんだなと、今、はたと気づいた。
それ以降だもんなー、別の人生が始まり出したのがさ。

しかも、今ではこの祈りを実際に使っている自助グループに参加することにもなっていて、人口の多い地域にはわりと存在しているようですが、ここ酒田で始まったのは近年だそうで、まさしく奇跡に近いものがある。

ということからの教訓は、
『心からの祈りは通じる』
ということになるかな。

うつ病から始まり、徐々に宗教っぽくなりましたが、それだけわたしがうつ病で味わった苦しみは深かったということが言えると思う。

この自助グループ、アメリカでアル中の当事者から始まったもので、薬中の自助グループでも同じ仕組みでやられています。
実は、先日、AA(アルコール依存の当事者グループ)とダルクさんのやっているNA(薬物依存の当事者グループ)のミーティング(分かち合い)に参加させていただく機会があったんですが、わたしの参加している自助グループとほぼ同じで驚きました。
さすがに、アル中や薬中の方々の体験談は壮絶なものがありましたので、わたしとソレは霞んで見えるほどでしたが。
と、いう体験を通して、
『自分という存在のちっぽけさ』
を体感させられています。

しかし、AA(アルコホリックアノニマス)もNA(ナルコティック・アノニマス)の方たち両方ともウェルカムな態度で受け入れてくださり、静かに感激しているところです。
やはり、ハードな体験をなさってきた方たちですね、そこから必死に回復しようと真摯に取り組んでいるからこそ、わたしのような人間にも温かく接することができるのでしょう。

とても貴重な体験をさせていただいていて、感謝しかありせん。
ありがとうございました。

思い通りに生きてゆけないことに対する無力

思い通りに生きてゆけなくなったことに対して無力を認める。
もっと謙虚にならにゃあかんと思った夜だった。

わたしは文字通り病気。
どうやらうつ病からは脱した状態は維持できるようにはなったけれど、謙虚さを忘れぬようにしなければすぐに逆戻りになる自信がある。
仕事やら何やらに依存しすぎて、いつしか燃え尽きるということを繰り返さぬためにも、わたしの思い通りにことは運ばぬという認識を深め、謙虚さを大切に生きてゆかなければならない。

それと他者に感謝することを忘れないようにもしたい。
ともすると、生きていることや他者の配慮が当たり前かのように感じ、それならばまだいいもののもっと満たされたいと思う欲求や思い通りにしたい欲求が先立ち、他者の存在があるからこそ生きていられるというのに、不満ばかりが募りがちである。

それと、すぐに承認欲求から、自分の考えを押し通そうとその瞬間に虚勢を張ったりするのも、相手から見損なわれたくないというわたしの弱さの現れでしかない。

過去、その果てにあったものが孤独の極みでありうつ病であった。

今日一つ、自己嫌悪や不満を抱きつつも、他者はわたしを見捨てないでいてくれるんだな、という現実があることに気づいた。

多少おおげさな表現になるかもしれないが、そのような他者の存在があるからこそ、わたしがここに存在することも許されているのではないか。

ほんの一瞬だがこのような気持ちになりました。

すぐに他者に依存したくなったり人が怖くなる弱いわたしだけど、今のわたしはそこにいてくださる方たちの存在に生かされています。

ありがとうございました。
感謝。