うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

「不安」の極地にあるもの

「不安」はどこからやってくるか – アゴラ

不安は不安のままに、しかし、行動をそのときどきで変えてゆくことが大切じゃないだろうか。
どのような行動を選択したら不安が軽減されるのか?という観点から様々試したいものである。

認知療法的にいくら思考や考え方の視点を変えても不安なものは不安である場合もあるし、わたしなどは思考に逃避(回避)することで不安が増大することがままありますからw

成功者パターンを残す感じで行動を積み重ねてゆけばいいんだと思う。

あとは、不安の原因を己の中に発見し、納得すると不安が手放されて行く、ということもあります。
なんて言うんだったかなー、“諦むる”というやつ。
これ、こないだ実感した。

逆説的だが、『不安という己の感覚を信じ、不安が己の内にあることを認識し戦わずして無力を受け入れ、原因を己の内に発見する。』
全て己の中で簡潔するとも言えますから、こういった観点からしても“己を信じる”ということが大前提なのかもしれませんね。
あとは、自分以外は変えられないという
仏教を引用させてもらうと、四諦の苦集滅道の苦。
『』で括った箇所は、苦集滅まで入ってるかもね。

方策を一つに限定せずに、こういうことを組み合わせるといいのかもね。

さらに発展させて仏教的にやるならば、以下に挙げる八正道が見いだされています。

正見(正しい見方)
正思(正しい決意)
正語(正しい言葉)
正業(正しい行為)
正命(正しい生活)
正精進(正しい努力)
正念(正しい思念)
正定(正しい瞑想)

正見、正思あたりは、認知行動療法的と言えるのではなかろうか。
おのれの内に湧き出でた感情を精査する、という点においてはね。

わたしも不安の強くでるうつ病であり、不安神経症社会不安障害)と診断を受けるぐらい強い不安を抱えながら生きています。
(なぜかという原因を個人のライフストーリーや気質などから振り返ってある程度は理解したつもり。書きたいのも山々だが、しごく個人的なことなのでこれは割愛。)

そのようなわたしが、
「不安は嫌な感情ですが我々人間を含む生物が生きる上では必要な機能」
だと思えるようになった。
生きている間、消えはしないでしょう。
受け入れるしかありません。

わたしはわたしの感じる不安に対して無力であり、もう戦わない方向へとやり方を転換させなければならない転換点まできています。