うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

無差別殺人犯のC・マンソン受刑者の死の話題に触れて ~赦しのプロセスを考える~

無差別殺人犯のC・マンソン受刑者、死去 83歳 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

魂は永遠だという仮説からすると、現世での罪は次の生に持ち越されるという。
本当かどうかは知る由もありませんが、そうだとするならば、いつどの時点で罪を悔い改めようとも変わらぬことだと言えるのではないかな。

人間一般のことを考えると、少なくとも“良心”というものはプレインストールされていますから、かれも心のどこかで罪の意識が芽生えていたのではないか。
本人が意識している領域とは別に、人が人を殺害するということの罪の意識は果てしなく大きなものとなり体に刻まれることになるのだと思う。
実際に彼がどう感じていたのか、それにどう向き合おうとしていたのか(向き合わない選択を含めて)まではこの記事からは見えてはこない。

被害者サイドの中に憤りが芽生えるのは当然でしょう。
しかし、その憤りとは別に、マンソン氏自身の中に生まれたであろう罪の意識がいったいどこへ向かったのか気になるところです。
罪の意識を強制労働の苦しみなどとすり替えるようなやり方とは別に、本人が既に抱えているであろう他者を殺害したことによる罪の意識と真正面から主体的に向き合い内省する行動をうながすことができていたのだろうか。
このようにして、反省によって罪を悔い改め自らを赦すというところまで持ってゆく。
ここまでやれたら、赦しのプロセスは完成かもね。

それと同時に被害者サイドの憤りはまた別に赦しのプロセスを想定しなければならないとわたしは考える。

要は、罪を犯した方と被害を被った方、相方の苦しみを軽減させるべく手当てがなされることを祈りたい。

※わたしが言っているのは犯罪者が犯した罪を正当化して許すのとは違い、本人が贖罪の意識から悔い改め反省するということの中にある“赦し”のプロセスです。罰するにも、いかに被害者感情がそれで“赦し”へと進むかどうか?という観点から考えることが大切なのではないか。殺人犯がいかに死刑となろうとも、失われた命が戻らないことは確かなのだから。哀しみや憤りが変容するための効果が最大化するための犯罪者への“罰”であってもらいたい。

最後に一つ参考に。

作家、アナンド・ギリダラダスによる
▽2つのアメリカの物語と、衝突の現場になったコンビニ
https://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20170523-00002219-ted