うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

不寛容の極みを体験すると寛容さの価値が身に染みる

「不寛容と戦うよりも、不寛容を弱い立場に押し付けた方が楽なんだよ。」 | Books&Apps

不寛容は必ずその集団の弱い立場に向けられるし、向ける方のロジックは社会的に受け入れられやすいルールや規則、風習などを使い「当たり前だ」といわんばかりに押し付けてくる。

たとえ小さくてもこのような体験が数えきれないほど積み重なると、
「“普通”なんかクソくらえだ。てめーら自身その意味を理解し尽くした上で、別な考え方ややり方も考慮にいれ、深く熟慮した上で、そのやり方を“普通”って言ってんだろうな?てめーらから虐げられるおかげで、オレなんざ来る日も来る日もそれで脳内会議に明け暮れなきゃならねーじゃねーか。他者を理解しようともせず熟慮しようともしないくせに、そんな軽口叩いてんじゃねーよ。浅い人間ふぜいが。」
まー、怒りに乗じてこのようなひどく相手を傷つけかねない思考が瞬時に頭を駆け巡る。

最近は落ち着いてきたもので、怒りに乗じてつい↑のものよりマイルドな言動で相手を責めたすぐ後、その相手に会いに言って経緯を軽く説明しつつ相手と普段通りに会話したりすることでフォーローできる相手もいるという体験をした。
いやー、怒りに震えているうちは囚われているから相手を飲み込まんばかりの勢いなんだが、それを自分の責任だとしてやんわりと受け入れてくださるものだから、わたし自身一瞬拍子抜けするほどだ。

成熟した人間が身につける態度として、この身に刻んでおく。
素晴らしい。

あと、不寛容さは眼差しの時点ですぐに分かる。

最近では、そういうのを察知して、
「あー、こりゃ人間関係殺伐としかねないなー」
と、わたしのできることをして対処するようにしてはいる。

これがまたやみつきw
昔、と言ってもほんの数年前までわたしはどこへ行ってもだいたい一番下っぱなことが多かった。
物静かだったこともあり昔から不寛容な態度を向けられることが多かったが、大人になったら多少マシになるかと思いきやそんな気配は一向になく、まーそれはひどい扱いを受けたものだ。
しかし、相手の人間性を変えることはてまきませんから、そのわたしなりの原因をさぐるとどうやら対人関係では低姿勢すぎるわたしの態度がやがて相手が図に乗り暴走する行動を作り出していた、ということになんとなく気づいた。

それにしても、大人なんだからおまえら歯止めきかせろよ…、と、わたしにとって大人であれば“当たり前”に他者尊重の態度が身に付いているもんだと誤解をしていた。

しかし、これでもまだ受け入れきれず、過去の傷は疼きますから一言忠告させていただきたいんですが、
「その他者を傷つけたという“業”はいつか必ずあなたの前にも現れます。そのようにしてこの世界は作られていますから、言動には最新の注意を払い丁寧に生きていただきたい。」
と願わんばかりである。

傷つけられた方はね、そのことを受け入れ原因を自らの内に発見し赦し手放すことで、魂の成長の糧になりますから考え方によってはありがたい。
だけど、傷つけた方は実はわたしち人間が生まれ持つ“良心”によって罪悪感が募ってゆきますから、弱った時に限ってどわーっと溢れ出てくることもありますから、注意が必要だとしか言えない。

これまでの人生で両方の極限みたいな立場を体験してきましたが、つらいなんてもんじゃない。
苛まれて死にたくすらなる。
日常生活なんか簡単に脅かされる。

しかし、怖いことばかりではなく、『寛容さ』を心の片隅に置いておけば心の落ち着きを得られますし、やがては豊かな人生を築くための礎となるでしょう。

“思いやり”や“他者(自己)理解”こそ愛情の現れであり、豊かさの象徴です。