うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

うつ病と無気力や孤独感

うつ病は美しくなんかない」ある女性が明かした “うつ病であることの告白” に賛同集まる
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『無気力』はうつ病という“病気”の症状のうちの一つで、風呂に入る、歯を磨くなどの行動をとることが極端に億劫になる。
男性の場合はヒゲを剃るのが億劫になり、よく無精髭になりがち。
一見すると同じように見えるかもしれませんが、健康な人が感じる「面倒くささ」とは別物です。

あと、孤独感から来る悲しみ。
これも症状にある。
わたしの場合はこれによって涙はあまり流れませんでしたけど、切なさや寂しさというものが半端ではなかった。
このときにわたしの思考に現れたのが「消えたい」というもの。
消えてしまうぐらいの孤独感がこの思考を生んだのでしょう。
想像以上にハードなものがありました。

体の感覚的には、もはや半透明かのように感じるほど。
体の感覚も無いに等しく、後から知りましたがあれは現実感覚に乏しい“離人症(感)”そのもの。

その他、不眠に過眠、常にある漠然とした不安感、予期不安、感情の鈍麻、焦燥感、疲れやすさ、性欲減退、などなどのオンパレードで生きていられるものではなかった。

悪化したときは「死にたい」が出てきてやばかったですが、過去に与えられていたいくつかの体験が糧となり、なんとか耐えることができた。

今思うと、ハードだと感じていた体験に守られていたのだなと、あれはわたしの命を守るべく起きた出来事だったのだと、感謝しています。
二つあって、両方とも人の死がからんでいる。
そして、このことや他の人の体験談などから、
『他者の死によってもたらされた悲しみは自らの命の糧となる』
という教訓を得ました。

しかし、うつ病がもたらす症状は人間として正常な反応です。

なぜかというと、環境に対する不適応を起こしているということを知らせるための体からのメッセージだと考えられるから。
無気力になるということは、一旦活動を停止させることにより、環境が変化するのを待つという、わたしたち人間が大自然の中で生きてきた頃の名残だと、わたしは感じていました。

しかし、人間は環境の変化を待つばかりではなく、主体的に行動を変化させることにより環境を変えることができる生き物です。
ですから、どうにかして『新たな環境に変える』という方向に向かって歩き出すことが結果的に回復へとつながると言えるのです。

人によって原因は様々でしょう。
過労気味の人は休養の後に仕事量を調整する必要があるでしょうし、思いきって転職を考えるのも手かもしれません。
しかし、うつ病の際には前頭葉の働きが鈍ることによって判断力が極端に低下しますから、すぐに決断することはしないこと。
後からでも遅くはありませんので、まずは後回しにして休養を取ることに専念を。

わたしの場合、生き方を変えざるを得ないところまで堕ちた。
過去のトラウマによって対人恐怖(見捨てられ不安)があって、その体験を見つめ直し、新たな意味を見いだして再スタートしなければならなかった。
半ば孤独な作業でしたし、困難を極めましたが、振り返るとアイデンティティを再構築したぐらいのインパクトがありました。
しかし、生まれ直したぐらいの新鮮さがあるにはありますが、しかし、対人関係について一から学び直しつつ体験を積み重ねなければなりませんでしたから、大変でした。
今でもやり続けていますし、もはやこの作業は生業に近いものがあります。

生き方を変えた、というよりは、ゼロから再構築しなければならないほどだったんだよねw

ほんとね、今までの人生で積み重ねてきたこと全てがガラガラと音をたてて崩れたかのよう。
実際、上に書いたように一から感覚を調整しなければならなかったということが物語っているように。

精神的にも赤ちゃん返り(退行)しましたから、ほんと、生まれ直したぐらいのインパクトがあったと思う。

困難を極めましたが、あきらめずにやり続けていたら、不思議と助けとなるものが周囲に現れ続けています。

その前段階では、実はわたしは神に祈った。
宗教ではないところで使われている「平安の祈り」というものを当時の手帳に書いてことあるごとに読んでは祈った。

『神様お与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変える勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを』

当初はつらい現実から逃れるためだったんですが、思い返すとあれがターニングポイントだったんだなと、今、はたと気づいた。
それ以降だもんなー、別の人生が始まり出したのがさ。

しかも、今ではこの祈りを実際に使っている自助グループに参加することにもなっていて、人口の多い地域にはわりと存在しているようですが、ここ酒田で始まったのは近年だそうで、まさしく奇跡に近いものがある。

ということからの教訓は、
『心からの祈りは通じる』
ということになるかな。

うつ病から始まり、徐々に宗教っぽくなりましたが、それだけわたしがうつ病で味わった苦しみは深かったということが言えると思う。

この自助グループ、アメリカでアル中の当事者から始まったもので、薬中の自助グループでも同じ仕組みでやられています。
実は、先日、AA(アルコール依存の当事者グループ)とダルクさんのやっているNA(薬物依存の当事者グループ)のミーティング(分かち合い)に参加させていただく機会があったんですが、わたしの参加している自助グループとほぼ同じで驚きました。
さすがに、アル中や薬中の方々の体験談は壮絶なものがありましたので、わたしとソレは霞んで見えるほどでしたが。
と、いう体験を通して、
『自分という存在のちっぽけさ』
を体感させられています。

しかし、AA(アルコホリックアノニマス)もNA(ナルコティック・アノニマス)の方たち両方ともウェルカムな態度で受け入れてくださり、静かに感激しているところです。
やはり、ハードな体験をなさってきた方たちですね、そこから必死に回復しようと真摯に取り組んでいるからこそ、わたしのような人間にも温かく接することができるのでしょう。

とても貴重な体験をさせていただいていて、感謝しかありせん。
ありがとうございました。