読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた患者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

神社とわたしと信仰心

https://newspicks.com/news/2241648
http://www.sankei.com/smp/west/news/170514/wst1705140013-s1.html

うちは神社が近いなんてものじゃなく、自宅のすぐ隣だ。

なるほどね。
だからわたしは、約18年うつ病に苦しんだけど、今ではうつ病の神から尊い教えとも言うべき数々の体験を与えていただいたかのごとく、それがおおいなる学びへとつながっていて、喜びに満ちあふれるようになったのは!

だいぶ誇張したw

しかし、この自宅の隣にある“神社”の存在が、わたしの病んだ意思をわたしを超えた存在へと明け渡し普通の人間として霊的な成長のプロセスを歩み始めるきっかけの一つとなったことは確か。

あまりにも神社が近すぎて、おそらくですが、ありきたりすぎる光景に脳が順応していたのでしょう、その結果、近年まで神社を神社だと認識すらしていなかった。
しかし、数年前に慢性化していたうつ病が劇的に悪化しアイデンティティ崩壊に陥ったことがきっかけで「わたしの自宅の隣には神社があったのだ」ということを思い出したのである。

仏壇の上にはミニチュア神社ともいうべき巨大なサイズの神棚にミニ神社が祀ってあり鈴までついていて、仏壇を拝むのとセットでこのミニチュア神社も同時に拝んでいた。
もはや、しきたりなど蹴散らさんばかりに、今わたしが拝んでいるのが仏なのか神社なのか自分自身識別不能になりそうであるが、その対象がいったい何であるかは幼いわたしには関係のないことだったのである。

おそらく、このような体験の積み重ねが、ユング的に言えば深層心理にある『わたしたち人間を超えたおおいなる存在の原型イメージ』を刺激し続けることになり、そのイメージが強化されたのではないか、と推測している。

そもそも“神”という存在に対しては人それぞれが「信じる」もしくは「疑う(信じない)」という関係で結び付いており、印象は様々でしょう。
しかし、近年に見られる既存の宗教が没落の一途をたどる状況においてもなお、わたしたちの中にある『信仰心』ということばで形容されるような尊い力が失われてはいないのだな、ということを実感している。

先日、鶴岡市羽黒のいでは記念館であった、知の巨匠、内田樹さんと内山節さんの対談『日本の聖地巡礼とコミュニティー』でもより緻密に語られていたことには驚くとともに感動を覚えた。

わたしは個人的にざっくりと↓にあるような状態から回復した体験をもってして、このことを実感するに至ったのです。
近年、うつ病が悪化してハイパーに退行していた時期、あのときは無気力かつ繊細さに磨きがかかり対人関係にも超過敏になっていた上に、些細な傷つき体験すら激しいトラウマと化すほどにフラッシュバックのオンパレードで荒れ狂う感情の渦に見舞われていた。
↑この体験は、渦中にいた頃はこの世の地獄と言っても過言ではないほどの過酷さがありましたけども、しかし、今では体の感覚などに多少の後遺症は残っていますが、今ではあの頃には考えられないような内面の平安と落ち着きを手に入れている、という事実。

宗教の枠に囚われない純粋な神。
わたしのいる文脈では、これを『ハイヤーパワー』といいますが、しかし、この存在はわたしたち一人一人固有の存在であり、その対象が何であるかも一人一人に委ねられている。
そもそも、わたしたち神との関係は人それぞれ固有であり、表現を変えれば信仰心の深さは人それぞれだということが言えます。

上の方にも書きましたが、この“信仰心”とはなにも『信じる』というあり方だけではなく、『疑う(信じない)』という仕方でも存在することがあります。

信じるも信じないもあなた(やわたし)に委ねられるものですが、そもそも「疑う」ということはそこに存在しているものを疑うという仕方で存在すると考えることもできましょう。

どうあれ、強制はできませんが、わたしは現時点では助かっています。

明日はどうなるか分かりませんけども、わたしたちは朝起きると同時に生まれ、夜寝ると同時に死ぬ、というサイクルを繰り返していると考えると、今日一日生かされたことに感謝せずにはいられなくなります。

ありがとうございました。