うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた患者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

生き方が分からないと悩むクセ。

生き方が分からずにすぐに悩みにどっぷりとつかるクセ。

しかし、表向き(感情的)には悩んでいても、実はかすかではあるが内面とのつながりから生き方を紡ぎ出せるところまできている実感がある。

昨日も書いたことだけど、内面とのつながりを太く維持し続けるためには、健康第一ですな。
特に体。
食事や睡眠、次に動くための活力を得るための休養。

特に目まぐるしい勢いで移り変わり続け、やることがめいっぱいになりがちの現代。
この流れはおそらく止まることはない。
このような風潮の中でも忘れがちなものが「休む」ということ。
仕事(ひとそれぞれにして何が自分にとっての“仕事”なのか?ということにも思いを巡らせておくといいでしょう)を生産的にすすめてゆくためにも、わたしたちの体は休養を必要とする。

日常をめいっぱい活動の時間にあてがちであるわたしは、よくこの「休む」ということの価値を見失いがちです。
その都度、体が悲鳴をあげてわたしに知らせてくれるのですが、その前兆であるサインすら見失いがち。

穏やかな時間を意識して持つということをもっと意識したいものです。

それと、ここ最近やってきたことを続けてゆく。
恐れながらでいい。
恐れが沸いたらそれと向き合うチャンス。
向き合うためのガイドライン的なものは与えられているので、いくつかあるそれらを利用する。
(すぐに内にこもりがちですから、もっと信じられる他者に頼ってもいいのかもしれない。ありがたいことに増えてきた。バランス調整中。)

あとは、これまで通り芽を大切にゆっくりとそだててゆく。
ここ最近出歩く中で、そのような育てって欲しい芽に沢山出会う。

かんたんに言うと、それらを応援しているときにわたしは生きている実感を得る。
“応援”の仕方は様々あると思う。
わたしの苦にならない距離感を見つけたいところ。
わたしが全面に出て周囲をひっぱってゆくというよりは、そのような関わりを求めている。

要するに全面に出ずとも生きて行ける。
だから、孤独にはつよい。
果てしない孤独感の中で生き延びられたのだから当然のこと。
しかし、わたしがもとめていることは、
『正直な心と心のぶつかりあい』
だった。

その都度その都度の他者との関わりを通して、相手が元気になったのならばそれがわたしの喜びとなる。
やろうとしてやってるというよりは、無意識でやってるとこあるんだけどわりとね、元気になる人出てきたかも。
驚くことに彼ら彼女らの滞っていた人生がね、動き出すんだよ。

小さい頃に強烈に感じたあの「わたしは誰かの影である」感。
あれは、こういうことを伝えるためのメッセージだったのだろう。

しかし、まずはわたし自身の基盤を安定させるべく育ててゆかなければならないのだけど、まずはこれを中心に。
エネルギーが欠乏に陥ってしまっては、もともこもありません。

コレ、わたしの人生の目的を達成するために、実は一番大切。

誤解を恐れずに言えば、わたしは「平穏」を求めて生きているところがある。
その過程においてじたばたともがいては、その都度自ら平穏から遠ざかっていたという過去がある。
(病気のモデルをあてはめると“躁鬱”的といえそうだ。)
今もまたその渦中にあると言えるのでありますけどもね。

だいぶ手当てはしてきたのだが、愛着の傷を抱えているため、やっかいではあるが、全てわたしなりに理解したという自信はあるので、不安定感に陥ることも多いかもしれないが、なんとかリカバリできると信じたい。

この傷を創造性に転嫁できる日が来ることをまずは信じて待とう。
すぐ焦ってどうしようもなくなるわたしにとって、「待つ」ということも大切なことである。

とにかく、求めていることは「平穏」。
がんばらなくてもいい場所だともいえる。
だからこそ、頑張れば頑張るほど内面的にはその状態から遠ざかるというジレンマ。

無意識に、そういう場所であったり人であったりを探していたということが分かった。

しかし、ここぞというときにがんばらなければならないポイントもあって、それに気づいて行動にうつせるかどうか。

面と向かって向き合いさえすればいいんだし、それをやるための知恵もすでに得ていると言えるでしょう。

だから、本当は生きる上での出来事の数々はもはや悩むほどのことはないのである。

現実と向き合うための、体の健康を維持しようとし続ける。

なんど考えても、ここに辿り着くんだな。