わたしにとっての性別とは。
最近、よくわたしの目の前にあらわれる現象から、
『生物学的なものや特定の文化に規定されない性別の在り方』
を考えさせられている。
詰まるところ、
『生物学的および特定の文化に規定されない、わたし(やあなた)の個性が性別よりも優先されてもいい』
だろうし、縛られることもないんだなと、そのような先入観から解放されたかのような爽快な気分である。
ステレオタイブに縛られない形としての性別の在り方に気づかされたというお話し。
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わたしは男である前にわたしという一個人である。
生物学的には染色体の関係で男性の機能を持つ体を所有しているにすぎない。
文化的にも男性という外見が持つ印象から、男性の役割を要求されることになるだろうが、それはそれとして受け入れたい。
しかし、それが全てでなくともいいのだな、と。
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実際にわたしは内面には大きな女性的な部分があります。
これは、実際にわたしのトラウマ的な体験を通してグランドマザー像から想像して現実の女性たちから理想的な母親像を類推し、自らの内面に作り上げながら、自助的に生きてきたようなところがあります。
んで、幾人かの知人からよく、
『まっしゃみーは女子みたいやな!』
ということを言われてました。
既にわたしは上に書いたようにわたしの女性的な部分の存在を発見しており、なぜなのか?というストーリーについても自分なりに理解していますから、一般的に理想とされる男性像とのズレから生じる傷つきはほぼありませんでした。
わたし自ら自覚してるのです。
とはいえ、若干違和感もあったのは事実ですけど、しかし、わたしはわたしでいいのだな、ということを最近の体験からもより確信に近づいている感覚が増している。
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まー、しかし、恋愛対象は女性ですのでw