うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

依存症とわたしと自助グループ

「地獄の底」に希望の光――アルコール依存、女性の軌跡 - Yahoo!ニュース

うつ病であると同時に依存症でありACでもあるわたし。
病気であることに変わりはないのだが、中核にACというものがありそれがうつ病(というよりはどちらかというとストレス障害ぽい)や依存症に発展したという風に理解するようになった。

今風に言えばACは愛着障害だととらえ直すこともできる。
そういった意味ではわたしはいわゆるパーソナリティ障害(正確には障害ではなくDisorder)の範疇にあったとも言えるだろう。

どうあれ、これ全部様々な角度から眺めた場合の病気の呼び名にすぎない。
病名はときの研究結果や社会的な状況によっても変化するもの。
ですから、病名にはこだわらずに治療や回復に取り組むことが大切です。(←ここまで具体的に言語化できるようになる前からこの認識はいつの間にか持っていましたから、これに則って積み重ねてきた。専門家の方もよくおっしゃってます。)

依存症は個人の意思の弱さが原因なのではなく、個人の意思を超えて止められなくなる病気です。
そして、これと同時にミーティングでの分かち合いを通して確実に回復につながる病気でもある。

回復している仲間を信じ取り組みさえすれば、豊かな人生が開けるでしょう。

引用↓
> アルコール依存症は飲酒欲求をコントロールできなくなる進行性の病気だ。

> 2013年の厚生労働省の調査では、国際診断基準ICD-10によるアルコール依存者数は109万人にのぼることがわかっている。しかし、治療者数は5万人に満たない。さらに家族が問題に気づいてから本人が治療に来るまで、平均して6年もの期間がかかっている。本人や周囲も「病気」であるとの認識が持てないことが問題だ。成瀬さんはこう話す。
「コントロールできないことが症状なので、必要なのは叱責ではなく適切な治療です。自分の意志だけではやめられないため、医療機関や専門機関に相談してください。早く治療すればするほど効果的です」

わたしもACAという自助グループに通っている当事者であり通ううちに依存症(と同時に、どちらかというとベースとなると言われている人格傾向のACも)を自覚するようになりました。
ちなみにわたしの依存対象(アディクション)はアルコールではありませんが、地域のオープンで開催しているAA(アルコホーリクアノニマスアルコール依存症当事者の自助グループ)にもちょくちょく顔を出しています。

ごくたまにNA(ナルコティクスアノニマス:薬物依存症当事者の自助グループ)にも顔を出します。
彼らから一人の“仲間”として受け入れていただきましたが、最初は複雑な心境でしたが徐々にわたしのような存在を受け入れていただけた感謝の気持ちが芽生えてきました。
また顔を出して分かち合いしてきたい。
彼らのハードな体験ほどではないですが、どこかわたしと似たようなものを彼ら仲間から感じることが多くありました。
何よりわたしの体験していないことを聴くことにより、わたし自身の体験の幅が広がる感覚がありますし、だからこそ学び多き機会です。

ちなみに規模や人数はさほど重要なことではない、ということにも気づき出しています。

わたしはアルコールでも薬物の依存症ではありませんが、目の前にそれらが無かったからそれをアディクションに選らばなかっただけですから、ひょっとしたらわたしもそれらの当事者の道を歩む人生があったかもしれません。
これはAA、NA双方参加して感じるようになったことです。
もちろんACAでの分かち合いの中でもこのことを発見するおおいなる気づきの一部が与えられたことは事実でしょう。

まだまだ半端にしか回復していない依存症当事者としてのわたしですが、しかし、記事にもある通り回復とは回復し続けることであると捉えると、半端であれ回復を実感するようになってきたのは事実です。

わたしの通うホームグループであるACA、オープンで参加させていただいているAAやNAの他にもGA、SA、EAなどもあるようです。
全て同じ12ステップや12の伝統を用いたグループですので、いつか機会があったら足を運んでみたい。

ちなみに、激しい苦しみの中をサバイバルしてきたわたしの師匠なんかは、もはや禅僧のようでもあります。

煩悩の世界ですから、仏教との親和性も高いのは当然ってことかもしれないね。

今日も振り返りの中で一つ、
ハイヤーパワーより与えられた苦しみを拒絶せず受け入れ実際に行動に移すことによって、わたしの回復が促されるとともに新たなフィールドが目の前に現れてゆく』
ことに気づくことが出来ました。

薄々このような気はしていましたが、思いきって勇気をふりしぼって出た行動が、現実を変えつつあるという実感が出てきました。

長いスパンで振り返ってみても、成長の新たな段階の前には必ず『苦しみ』が与えられ、それと自分なりに向き合い行動に変えることで新たな存在として生まれ変わり続けたのだなということがはっきりと分かります。

これまでもそうであったように、おそらくこれから先の人生においてもこのようなサイクルが繰り返し繰り返し波のように訪れるのでしょう。
しかし、小さな人間であるわたし一人の力では、そのような繰り返し訪れる苦しみに対して無力でしかありません。

そのときはまたハイヤーパワー、あなたのお力をお貸しください。

あなたから与えられる助けや恵みに感謝です。

わたしや仲間たち、家族、地域の人々、そして縁があり関わってくださる人々全員の平安と落ち着きを祈ります。

田代まさしは公演という公の場で“ハイヤーパワー”ってことをぶっちゃけてるけど、他の仲間は“縁”とか“他者の存在があってのわたし”などという表現でオブラートに包んで表現している。
どうするか一瞬悩んだけど、祈りの最中に頭の中でつぶやいているようなイメージでわたしも直接的な表現を用いることを選びました。

これらの“病気”と向き合うことがわたしの人生を生きるということの中核にあります。
“苦しみ”についての対処法も自助グループフォロワーシップの中に数多くあり、経験の叡知をお借りしています。

ハイヤーパワーや読んでくださったあなたの恵みに感謝です。

ありがとうございました。

わたしはコミュ症です

昨今のビジネスでは「社交性」よりも「説明能力」のほうが遥かに重要。 | Books&Apps

「社交性」と「説明能力」を両方兼ね備えている人も中にはいます。

わたしはというと対人関係が苦手すぎるためPCとにらめっこする職に就いたはいいものの、コミュニケーションというものを非常に重視している会社に入社し、入社前研修での対人関係のストレスからうつ病(振り返るとどうやらストレス障害っぽい)を発病した、真症の『コミュ症』である。
やだやだw

その会社にいた頃はコミュニケーションについて悩みあぐねてはいましたが、具体的にどうこうして能力を伸ばす手立てすら分かっていなかった。
しかし、それなりに職に就いては…ということを繰り返しながら、現実の対人関係からは逃げてばかりいた。
主にネットの世界に逃げていたね。
チャットから入りやがてネトゲにとっぷりと浸かることになる。

コミュ症ながら他者とつながりたい願望は昔から人一倍あったようで、文字を通してのコミュニケーションは欠かさなかった。
おかげで周囲の知人から「おまえのメールはなげぇよ!」と悪態つかれることが幾度となくあったw
まあ今ではある程度受け入れられるようななったため、自らネタにするぐらいになりました。

あれから10年以上が経ち、それなりにちまちまとネットでコミュニケーションとは何ぞや?ってテーマで読んでいたはいいが、いかんせん現実の世界で行動に移すということはあまりやってこなかったため、頭でっかちを地でいくような始末。

人生が底を尽きてからですね、徐々に現実の世界でコミュニケーションの練習を積み重ねるようになったのは。

わたしは理屈から入った口ですから「なぜわたしはコミュ症なのか?」とうことをざっくり説明できそうだということからどうやら「説明能力」は有りそうだ。

しかしね、未だに恐れが強くて話し出しても自信が無いからすぐに怖じ気づいちゃう!
どうしようもないw
毎日これだw
これが他者とのコミュニケーションのネックになっているのは分かるんだけど、怖いものは怖いw

最近では気づいたときに「あ!やべっ!」っつって、その後に思いきって力を込めてしゃべるようにはしているのだが、いかんせんコミュ症っぷりは健在です。

どうやら共感力もあるらしくまるで女子のように「わかるわかる」が口癖です。

わたしにとってコミュニケーション上ネックなのは『恐れ』。
場数踏むしかないかな。
毎日修行ですよ。

今のわたしから過去のわたしへ。

ちょいと他へ投稿した文章をメモ。
今のわたしから過去のわたしに向けたメッセージ。

ま、わたし自身どう生きたらいいか悩みあぐねた果てにたどり着いた現時点での『生き方』の集大成です。
わたしの中では随時アップデート中w

ちなみに、『行動』の部分をもうちょっと練りたいところ。

もしも、思い通りの人生を生きられずどうしようもないどん底にぶちあたったとしても『いかにそれらを受け入れるか?』をテーマにし、受け入れるべきは受け入れ、受け入れがたしはさっさと捨てつつ、それらを見分ける賢さを養うようにして生きてください。
自らにとって喜びとなる大切にすべき価値観を知ろうとし続けながら、出来事や他者から学ぶように生きましょう。
実は、思い通りにならないことの中にこそ、大切なことが隠されていることに気づくかもしれません。
(わたしという一人の小さな人間に思い通りにできることなどほとんど無いのかもしれない、ということに気づく瞬間が訪れるかも?)

失敗から得られる教訓こそ学びになります。ですから、自身のみならず他者及び範囲を問わず歴史などの過去の失敗体験にはよく耳を傾けて聴いておくこと。
成功よりもむしろ失敗の方を大切に生きてもらいたい。
わたしたちが赤ちゃんの頃、ハイハイから二本足で歩けるようになるまでに、いったいどれだけ転んだことでしょう?
たとえ、何度転んだとしてもそこからまた始めなおせばいいのです。

後悔だって浴びるほどすればいい。
生きるエネルギーが尽きるほど悩むのもまた人生。
他者から「悩みすぎ」だと言われようとも、突き詰めて具体的に悩み尽くせばいい。
そのためにはよく学んでおいてください。
ま、行動もセットでね。

それと、いかに苦しい状況に晒されようとも、生きてさえいればどうにかなるものです。
誰にも理解されずに孤独の縁に立ち尽くすことがあろうとも、必ず誰かが見てくれていて、自分なりに生きようとしてさえいれば必ず助けが入ります。
少なくとも、たとえ世界があなたを見捨てようとも最後まであなただけはあなたを見捨てないでいてください。
ぜひ、生きることや信じることを諦めないで。

どのような人生だったとしてもそれはあなたにとって与えられた人生です。
あなたにとってかけがえのない人生になることを祈っています。

まあ、肩肘張らずにそれなりに(笑)

以上、ありがとうございました。

中学生のソフト化と自立(母子分離)

なぜ"不良の中学生"はモテなくなったのか | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

親子関係が濃密すぎてもおそらく今度は自立(母子分離)の過程がややこしくなってくると考えられます。
想像にすぎないですが、これが家庭内暴力の増加につながってんのかもね、という仮説。

親的な存在としてはいっそビシバシ厳しい態度をした方がいいのかもねー、というのはうっかり詭弁であったw

要するに、母親機能を担う大人は安全基地機能を担保しつつ、父親機能を担う大人は遊びや社会との接点、そして厳しさを教えるということを幅広く調和させるようにしてやればいい。
(多少ハードかもしれないが、一人の人間がこれらの機能を満遍なく担うことも積み重ねによって可能になるのだと思う。)

ということで、やっぱもうちょいハード寄りの機能(厳しさ)を増やしたらいいんじゃないかしら。

↑他者を甘やかしすぎる傾向を持っていたわたしにとって『厳しさを増やす』ということは一人の人間としての課題でもあります。
が、なんか最近の巡り合わせによって、わたしの中のシャドウ(劣等感、過去の心のキズ)がいい働きをしてくれていて、態度に厳しさを内包するようになってきた。
しかし、思いやりを持ちそれを行動に移して具体的にフォローすることも忘れてはいけない。
なぜならば「わたしが相手を傷つけて(蔑ろにして)しまった」ことから生まれる罪悪感を減らすため。
相手がどうかというよりは、主体的にフォローするという行動によって、わたし自身の気持ちを安定させる(赦す)ためとも言い換えられる。

あらかじめ相手に対する不満を自らの内で事前に赦しておけば、厳しい態度を取らずにいられるようになるかもしれない。
理想を言うとそこまで発展させた方がいいんだろし、面倒だけど次のステップとして試しにやるか。
正直煩わしいんだけどさw

そこまで進めたら、恐らく厳しくした後の相手への罪悪感も減る。
そして、これまでの反応に任せた形での厳しい態度や行動は減り、しかしあえて他者にはっぱをかけて気づきのきっかけにするときに落ち着いた中から選択して行動に出せるようになるでしょう。

間に一つ赦しを入れる習慣から取り入れてみようと思う。
ま、完全にれないのは目に見えてますが、やるだけやることで対人関係の質の精度を高めて行かねばの。

己が変われば相手も変わるもの。

こういうことが日常を通して実行する、わたしにとっての修行であり生きることであります。

スピリチュアルヘルスと日本人の健康

日本が「長寿大国」と言えなくなる日。ハーバード大教授に聞く、深刻すぎる理由

スピリチュアルヘルスのについては、更に土台になってるような気がする。
日本文化や環境の中には当たり前のように神仏の存在や儀式が行われていますから、足下にありすぎて認識にすら入ってないのでしょう。
中には意識して生活を送ってらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、減りつつあるのかもしれませんね。

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統合失調症とわたしの類似性

さっきyoutubeで主に統合失調症の当事者同士の当事者研究統合失調症の当事者の体験談の動画を見ていて思ったこと。

『それ、全部オレにもあてはまるw』

オレも一度、うつ病の症状が悪化したときに感情の起伏が恐ろしく激しくなった時期があって、そのとき統合失調症の薬が処方された。
確かリスパダール
しかし、飲んで効きが強くあまりにもぼんやりしすぎたので飲むのを中止し、医師に相談して元の薬に戻してもらったことがある。

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今「死にたい」と考えている方へ

その気持ち、よく分かります。

こんな歌詞がありました。
「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」
確か森山直太郎だったと思います。

あと、以前、精神科医名越康文さんの「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」というタイトルの本を思わず手に取ったことがあります。

それと少しハードな話しになっちゃいますが、わたしの知り合いの高齢の方が障害を負ってそれを苦に、とうとう死のうと決めて車で出たところ、激突する前にエンジンが止まったんですってー!
それを聞いたとき、いくら死のうとしても死ぬべきときまで生かされることになるんじゃないかなと感じて。
それをその場で言葉で彼に「ひょっとしたら今生でまだ果たすべき役割があるからこそ命があるのかもしれない」と分かち合ったところ、おおいに共感してました。
ちなみに彼は半身不随でも車を運転して遠出しますし、独り暮らしもしてます。
エネルギッシュでハイカラな野望尽きないおじいさんです。

または別な方で、5歳の頃に首つろうと木の枝に縄つけて吊ろうとした瞬間、足場にしていた椅子が壊れて生きることになった人も。

この体験を持つ二人ともたまに会ったり電話したりするほど近い仲で、今ではわたしが心から尊敬できる方たちです。

それと、長くなってしまい恐縮ですが、わたしは家族を自死で亡くしましたので自死遺族です。
その家族の死が頭の片隅にいつもあり、苦しみの極地にいながら生きることを選び続けることができたからこそ、今でもまだ生かされています。
その家族の死の悲しみとは既に向き合い尽くしており、今ではいつでも心の中で悲嘆の体験を通して大切なことを教えてくださった存在としてつながることができます。
先日、たまたま生で聴く機会に恵まれ涙をこらえきれませんでしたが、「花は咲く」のイントロからうるっとくるんですけども歌詞の『今はただ愛しい あの人を思い出す』でこの家族のイメージが浮かんで涙が出るんですよね。

自死については様々な意見がありますね。

自死がダメなことだとか周囲に迷惑をかけるから死ぬべきではない、などとは言わない。
実際に死んでしまうほどの苦しみを抱えていたのだから、あれほどの苦しみの中で生きた時間の方があなたにとっての生きたという証だと思います。
むしろ、あんたあれをよく生きたねと、その命に報いたい。

わたしだったら、本当はあなたの命も一人の人間として価値あるものですから自死してもらいたくはないと伝えたい。
実際にわたしも苦しみの中でさえ実は愛は与えられていたのではないかということに気づいた。
だから、いつかそのことに気づくときまで死にたい気持ちを抱えながらでも生きる努力を細々とでもいいから続けて欲しいと伝えたい。
なぜならば、わたしが実際に日々そうして生きてきたし、今の命はそれをしたからこそ生きてる命です。
しかし、辛いなんて表現じゃ軽すぎるぐらいの内面的な痛みや現実を生きることも同時に苦痛の日々でしたので、まるで地獄に足を踏み入れたかのようでした。

それと、他者の死の悲嘆と現実的かつ具体的に向き合い、乗り越えるというよりはむしろその他者の死すら内面に宿しながら自らの命の一部にすることもまた可能です。
それも試行錯誤ながら取り組んだおかげで、やることができましたから、確信に近いものがあります。
大きな辛さや痛みを伴うことは確かで、時間もかかりましたし困難を極めましたが、自己流でもやるしか道はありませんでした。
人間であれば誰しもこの能力を持っていると自信を持って言えます。

わたし自身、生きることにとことん悩んだ過去があるから、今、命の有り難みの大きさが分かるし生きることが楽しくて仕方ない…と、いつかほざいてみたい(笑)

ま、今日一日生きられれば、また明日からもこの繰り返し。
もしもまた、生きることが嫌になるときがきたとしても、またそれをありのまま感じながら生きることでしか、もしかしたら生きられないのかもしれない。
あのとき部屋には弟が残していった『生きろ』と書いてあるもののけ姫のポスターが貼ってあり、数年の間、来る日も来る日も目についていてました。

与えられたこういう体験の積み重ねで生かされてきたんだなと、今更ながらに痛感します。

ま、今日一日が続けば振り返るといつか死ぬまで生きることになってるんじゃないかなー。

わたし自身のことだけではなく、人それぞれにして「死にたい」と考えるようになってゆく経緯は、表現は適切ではないかもしれませんがほんと彩り豊か。
ですから、それと向き合うのはその苦しんでいる当事者そのものですので、もしそのような相手が目の前に現れたのなら、ささやかながらわたしの体験を分かち合うことと同時に、行動化しないように細心の注意を払いながら、相手が相手のペースで自らの経緯(人生)を整理できるよう丁寧に耳を傾け支える態度を持てたらなと思うようになりました。