うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた当事者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

わたしのこれまでの人生の癒しのプロセス。

わたしのこれまでの人生の癒しのプロセス。

様々なことが起こる毎日だけど、そんな中でもこのプロセスが強力に前進していることが分かる。
(その過程の中で、傷つけた相手もおりますので、機会ある度に穴埋めしてゆきたいところである。)

長らくうつ病を患っていたため、後遺症的な体の感覚は残ったままにせよ、もともと内面にあった落ち着きと平穏の場所が徐々に広がっていることが分かる。

何があったかというと、久々に心の底から震えるような涙を流した。
悲しみではなく、これはまるで”慈悲の涙”ともいうべき感情なのかもしれない。

ふっとね、弟が前にやろうとしていたことが浮かんでさ、それにわたしがこれからやろうとしていることと結びつき、純粋にまだ見ぬ彼らの希望を願う温かな気持ちと現状を憂う悲しみとが混然一体となった感情。

人って温かさと悲しさを同時に感じることができるんだね。
過去の悲観がベースとなった未来への希望。
涙しているときの感情を見つめていたら、まるでモザイクのようだった。



あれほどまでに死にたい気持ちに見舞われ続けても、今ここに生きることができているわたしならではの体験なのかもね。

決して派手ではないが、味わい深い人生だな。
また泣けてきたw
こんな体験、もう二度とないかもしれないから心ゆくまでじっくり一人で全身で味わおうっとw

生きてて良かった。
よもや、心の底からこう思える日が来るとは思わなかった。

そして、回復のプロセスはまだまだ続くのである。

生き方が分からないと悩むクセ。

生き方が分からずにすぐに悩みにどっぷりとつかるクセ。

しかし、表向き(感情的)には悩んでいても、実はかすかではあるが内面とのつながりから生き方を紡ぎ出せるところまできている実感がある。

昨日も書いたことだけど、内面とのつながりを太く維持し続けるためには、健康第一ですな。
特に体。
食事や睡眠、次に動くための活力を得るための休養。

特に目まぐるしい勢いで移り変わり続け、やることがめいっぱいになりがちの現代。
この流れはおそらく止まることはない。
このような風潮の中でも忘れがちなものが「休む」ということ。
仕事(ひとそれぞれにして何が自分にとっての“仕事”なのか?ということにも思いを巡らせておくといいでしょう)を生産的にすすめてゆくためにも、わたしたちの体は休養を必要とする。

日常をめいっぱい活動の時間にあてがちであるわたしは、よくこの「休む」ということの価値を見失いがちです。
その都度、体が悲鳴をあげてわたしに知らせてくれるのですが、その前兆であるサインすら見失いがち。

穏やかな時間を意識して持つということをもっと意識したいものです。

それと、ここ最近やってきたことを続けてゆく。
恐れながらでいい。
恐れが沸いたらそれと向き合うチャンス。
向き合うためのガイドライン的なものは与えられているので、いくつかあるそれらを利用する。
(すぐに内にこもりがちですから、もっと信じられる他者に頼ってもいいのかもしれない。ありがたいことに増えてきた。バランス調整中。)

あとは、これまで通り芽を大切にゆっくりとそだててゆく。
ここ最近出歩く中で、そのような育てって欲しい芽に沢山出会う。

かんたんに言うと、それらを応援しているときにわたしは生きている実感を得る。
“応援”の仕方は様々あると思う。
わたしの苦にならない距離感を見つけたいところ。
わたしが全面に出て周囲をひっぱってゆくというよりは、そのような関わりを求めている。

要するに全面に出ずとも生きて行ける。
だから、孤独にはつよい。
果てしない孤独感の中で生き延びられたのだから当然のこと。
しかし、わたしがもとめていることは、
『正直な心と心のぶつかりあい』
だった。

その都度その都度の他者との関わりを通して、相手が元気になったのならばそれがわたしの喜びとなる。
やろうとしてやってるというよりは、無意識でやってるとこあるんだけどわりとね、元気になる人出てきたかも。
驚くことに彼ら彼女らの滞っていた人生がね、動き出すんだよ。

小さい頃に強烈に感じたあの「わたしは誰かの影である」感。
あれは、こういうことを伝えるためのメッセージだったのだろう。

しかし、まずはわたし自身の基盤を安定させるべく育ててゆかなければならないのだけど、まずはこれを中心に。
エネルギーが欠乏に陥ってしまっては、もともこもありません。

コレ、わたしの人生の目的を達成するために、実は一番大切。

誤解を恐れずに言えば、わたしは「平穏」を求めて生きているところがある。
その過程においてじたばたともがいては、その都度自ら平穏から遠ざかっていたという過去がある。
(病気のモデルをあてはめると“躁鬱”的といえそうだ。)
今もまたその渦中にあると言えるのでありますけどもね。

だいぶ手当てはしてきたのだが、愛着の傷を抱えているため、やっかいではあるが、全てわたしなりに理解したという自信はあるので、不安定感に陥ることも多いかもしれないが、なんとかリカバリできると信じたい。

この傷を創造性に転嫁できる日が来ることをまずは信じて待とう。
すぐ焦ってどうしようもなくなるわたしにとって、「待つ」ということも大切なことである。

とにかく、求めていることは「平穏」。
がんばらなくてもいい場所だともいえる。
だからこそ、頑張れば頑張るほど内面的にはその状態から遠ざかるというジレンマ。

無意識に、そういう場所であったり人であったりを探していたということが分かった。

しかし、ここぞというときにがんばらなければならないポイントもあって、それに気づいて行動にうつせるかどうか。

面と向かって向き合いさえすればいいんだし、それをやるための知恵もすでに得ていると言えるでしょう。

だから、本当は生きる上での出来事の数々はもはや悩むほどのことはないのである。

現実と向き合うための、体の健康を維持しようとし続ける。

なんど考えても、ここに辿り着くんだな。

れいごとに聞こえるかもしれないが、自分らしく生きようと人それぞれにしてみんな何かと戦いながらもがき苦しんでいるんだなという思いをより強くした。

そして、生きるということは痛いし苦しい。

なんて表現したらいいのか、その全てが苦しみという形でわたしたちに迫ってくるのかもしれない。

しかし、その苦しみの中にも、ほんの一瞬かすかな光が差すかのごとく感じることが少しずつ増えてきた。

恐らく、以前からこういう瞬間は何度も訪れていたのだろう。
それに気づいていなかっただけで。
気づこうとする意識すら働かなかったのかもしれない。
しかし、その理由は人それぞれにしてあるのでしょう。

そこから抜け出し、幸せを手に入れるために、まずはそのことに気づくことが大前提なのではないか。

それと、自らが幸せになるに値すると認めようとし続けることもまた大切。

今まさにこの瞬間に自分の体で感じていることに意識を向けようとし続ける。

単純かもしれないが、こういうことの繰り返しなのかもしれない。

あとは、体が疲れ果てていると、感覚が鈍ったり不要なものまでキャッチしてしまう、ということがあるんだろう。

シンプルなことかもしれないが、これに尽きるような気がしてきた。

偉そうなことばかり書いているわたし自身、まだまだなのでありました。

おやすみ、今日。

マインドフルネス。


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ビンゴびんご。

この全部に<瞑想>について書いてある。
特に、マインドフルネスは瞑想から宗教色を抜いてより科学的な分野と融合したものだとわたしは理解している。

ユング心理学にも瞑想出てくるし、みんな迷わず今すぐに始めるべきだぜ。
体系的な心理療法に組み込まれたものなら、うつすら治る。
オレは実際に医師からレクチャー受けて、これを体験してる。
レクチャーを受けた時期(去年)は誰から教えられるでもなく、日常にも取り入れだしていたタイミングでもある。

わたしも見よう見まねでやってたんだよ、振り返るとね。
師匠も道元さんの話をよく引用するし、それを聞いてオレも「あー、やっぱそうだよねー」ってこころに響いてた。
彼も<禅>の思想には相通ずるセンスを持っているのだろう。
それぐらい苦しみ多き人生だったのだから当然のこと。

しかし、誰がどうであれ全て人間。
内面と深くつながることで、その先の世界の入り口に近づくということがあるのでしょう。
未だ科学では解明されきっていない分野のようで、いやー、なんだか内心勝手に燃えるw

気になる本は買って手にとるべきだね٩(ˊωˋ*)و

公益文科大学メディアセンターにて。


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とう!
昨日、公益文科大学のメディアセンターの図書館で。

いやー、心踊ったw
思わず写真撮ってしまった、ごめんなさい(・人・)

ちなみに、二枚目の空いてるところは、借りるために抜いたからないのw

【Bokucan(・ω・)】人間大好きなんだなー。
それが転じて人間大嫌いになっちゃってたもんねー。
大変だったね。

【Bokucan(・ω・)】とは、わたしの内面の子供のような純粋な部分。以前わたしは自身の内面に宿る“彼”をこのように認識していた。

オープンにするのは少し抵抗ありましたが、パーソナリティ・ディスオーダー(パーソナリティー障害)の治療などでは、たとえばよく自分が怒り狂った状態などにネーミングして客観視することで、怒りに身を任せるずに他の行動を選択するようにする、なんていう風に使われていることを考えると、わたしもこれはよく分かる。

外在化っつーのか、いったん外だしにする。
そうすることで、責任を個人から外だしににしたそれに委譲でき、そこから新たな展開を生むことが可能だということだろうなと理解してます。

まー細かいこと書いてたらキリないから、いいや。
よく考えたらこういうことについてはちょー工夫しまっくてるぜ。
これぞ、わたしのうつ病を回復へと導くために発揮していた創造性だね。

『生きることはまさにそれそのものが創造である』のよ。

わたしの中の閉じた世界でやってんだけど、苦しさの中に発見したささやかながらの楽しみですw

いつもSNSにタイトル考えないで投稿してるから、急にタイトルきかれても困るw


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昨日行った、コワーキングスペース アンダーバー
昨日あそこに行き、出会ったのが写真の本と記事。

行く先々、まあ、ネットも含めてなんだけど、こういうものがよく目につく。
両方とも精神医療関係の方が書いた記事なんだけど、オレの興味とどんぴしゃw

去年、アンダーバーのあるとなりの建物の図書館で借りたNBM(ナラティブ・ベースド・メディスン)について知った。
これについて素人ながら「医学はここまで進んでるのか!」と静かに心を打たれるほどの感動と衝撃を受けたのを今でも覚えてる。

これについて『ナラティブと人間学』というタイトルで深尾憲二朗さんが書いていた記事は読みごたえたっぷりだった。
精神疾患の患者の診断のプロセスが書いてあったんだけど、こりゃ、オレの人生で使える!とか思った。
人間について、相手がどのような方なのかの一応の分類に、わたしはこのような基準を参考にしてたりするのよね。
なぜかはよくわからないが、染みてくるの。

あとは、わりとメディアなどにもよく名前の出る精神科医斎藤環さんが書いた『“コミュ障”は存在しない ――開かれた対話と「コミュニケーション」』。
フィンランド発祥で話題の開かれた対話による治療<オープンダイアログ>について、コミュニケーションとからめて書いてあった。

まー、わたしがうつ病を患ったきっかけがコミュニケーションでありまして、わたしも個人的にオープンダイアログというものにたどり着いておりました。

何を隠そう、わたしも<社会不安障害>などという病名だったこともある、直近でね。
しかし、主治医は「以前からあった神経症と似たようなもの」とおっしゃっていたし、対人関係にがてで緊張しまくりだったというわたしの理解のするわたしの性格もあって、特に意に介さないで「ふーん、やっぱそういう診断になるんだねー」と他人事のように聞いていたのを思い出すw
それについての、日常を通しての対人訓練、しかもわたしが一番苦手とする対象(困ったことにこの世の約半分をしめるw)にちょいちょいコミュニケーションの練習して、手当はしつつあったし。

つい話し飛んじゃってたけど、この記事との出会いは、すごい。
オレのこれまでの人生を凝縮してると言っても過言ではない。

こういう記事や本と出会うことにより、わたしは徐々にうつ病からの回復へ導かれてきたかのように感じています。
これから先、どのようにつながってゆくのかは想像がつきませんが、おそらく、うつ病などの精神疾患、コミュニケーション、にからむ分野へと景色が変わりゆくのだろうなということは、なんとなく分かるのですよね。

まるで、シャーマン的というか、なんていうか、理屈はわかんないんだけどなんとなくそう感じるんですもの。
わたしがわざとそこへ向かわないようにしたとしても、おそらく強制的に向かわせられるであろうことも、薄々気づいていますので、迷わず向かいますw

うつ病の回復への道のり(休職とリワーク)。

この文章は、わたしが投稿したNewsPicksの毎日新聞の以下の記事のコメントに加筆したものです。

mainichi.jp

 

newspicks.com

 

産業医小橋 正樹様よりコメントでご紹介していただきました!

小橋さまからは、患者としてのわたしの意見を現役の医師としての立場から紹介していただいたということで、とても心強く感じています。

この場をお借りして再度御礼申し上げます。

大変ありがとうございました。

 ◆以下コメントです↓↓↓

 わたしはもうすぐうつ病歴18年になる患者です。

しかし、最近では回復の状態を維持しながら生活を送ることができています。

自分でいうのもなんですが、ここに辿り着くまでに、それはそれは大変な苦労を重ねて参りました。
主観的には何度も死を意識するほどで、体感的には体が消えそうになる感覚を何度もなんども味わったものです。
苦しいなんてことばでは表現しようのないほどの苦しみ。
そのときにわたしは、まるで世界にわたし独りしかいないかのような激しい孤独感に包まれていました。

このようなわたしがうつ病から回復するきっかけとなったものの一つに、
うつ病リワークプログラム』
があります。

人生で何度目(大小あわせて一桁では足りないほど体験がある)かの再発したときつながったのがこのプログラム。
主観的には藁にもすがる思いで通いました。

これまでは薬中心の治療を受けており、何度も再発を繰り返すものだから
「医療の助けはほどほどに、なんとか自ら力で病を克服しなければもはや生きる道はない」
という思いから、精神分析医のもとに通ったところ病院側の理由で打ちきりとなり残念な思いをした経験もあります。(しかし、フロイトの思想に出会うために与えられた体験だったと、今となってはわたしの人生の中でこのように位置付けています。)

家族はいますが職についてもすぐに再発を繰り返すため半ば家族からも見放されつつもお金に困る状況。
独り暮らししていた過去には自己破産も経験しました。
経済的に満足のゆく生活を送ることが難しいながらも、無料で臨床心理士からカウンセリングを受けられる場所と廻り合い、カウンセリングを受けたりしつつ、心理学やうつ病、パーソナリティ障害や発達障害などの本を読み漁る日々が数年続きました。(ここには今でもお世話になっています。)

過去のトラウマ(決して派手ではない出来事だとしても当事者にとってはトラウマとなり苦しむこともある)と向き合うということがいつしか生活の中心にあるようになり、抜け出るときにしても激しい苦しみを体験せざるをえないのに、ある程度の生活費を賄うために仕事にも通いつつ。
しかし、仕事は長続きはしなかった。
単なる日常がフラッシュバックの嵐と化したわたしには、自分の力ではもはやどうしようもない状況にまで追い込まれていました。

そのような中、精神科のデイケアで立ち上がったこの『うつ病復職支援プログラム』と繋がることができ、回復状態を維持しながら生活を送ることができているのです。

多少おおげさかもしれませんが、もはやわたしにとっては奇跡に近い。

無様にもがき苦しみながらも生きることは決して諦めずにいたからこそ、神様からの助けを与えていただけたのかもしれないとさえ感じるほどです。

さて、記事にある、
【再発に伴う病気休暇の再取得】
の問題。

これについてわたしの経験を踏まえて患者サイドから申し上げたいことは、
うつ病は正しい知識と人それぞれの症状にみあった対処方法を身につければ病気を抱えつつも再発を抑えながら生活を送ることが可能である』
ということです。

主観的には多少ハードかもしれませんが、患者が自身と向き合うことで自ら問題に気づき、それに対して明確な対処方法を与えられる環境が、わたしの通った『うつ病リワークプログラム』にはありました。

具体的には
うつ病という病を学ぶための心理教育
・集団認知行動療法(わたしの通った精神科病院ではマインドフルネス)
・集団や単独で行うオフィスワーク
・軽スポーツやヨガ
などなど、これだけではなくプログラム全体を通して自身と向き合える環境が医療という安全な枠組みの中で提供されています。

↓わたしの通った病院ではありませんが参考までに。

▽リワークプログラムに関するデータと体験談/メディカルケア虎ノ門

http://www.medcare-tora.com/ramp/data.html

職場目線で考えた場合にはまた違った対応策が浮かび上がることでしょう。

この問題への取り組みが、ひいてはこの課題多き日本を救うきっかけになることを祈りつつ、一患者としての体験談とさせていただきます。