うつ病を生きる

うつ病と共に18年間歩んできた患者が『生きるとは何か?』について真剣に考えるブログ。

家族というものが抱える負の側面(生活保護の扶養義務強化について)

生活保護の「扶養義務の強化」は「貧困の連鎖」を生む(大西連) - 個人 - Yahoo!ニュース

いつからなのか、家族で支え合うということが美徳とされている現実。
たしかに、幸せな人生には家族との関係性が良好であるということが大切だと言えるでしょう。

しかし、フタを開けてみると貧困や不幸などという負の一端を担っているのもまた家族だと言える現実が広がっているのもまた事実です。
福祉の現場からは「貧困の再生産」という問題が家族によって受け継がれるということも事実として分かってきている。
誤解を恐れずに言うならば、DVや虐待(肉体的な暴力のない精神的な虐待も含む)は精神疾患患者を生むこともあるし、アタッチメント(愛着)の問題からパーソナリティディスオーダー(パーソナリティ障害)の起源とされているのもまた家族との関係性の質である。

善かれ悪しかれ人間は環境にあったものをダイレクトに引き継ぐ。
過去には、DNAによる遺伝だとされてうやむやにされがちな風潮もありましたが、しかし環境によってDNAがエピジェネティックに変化するということも最近の研究で分かっていることでして、もはやそのようにしてうやむやにはできないのです。

依存性などを追っていると、アダルトチルドレンという生きづらさを抱えがちな主体性に乏しい性格が家族との関係性によって作られるということが分かっています。

様々なことを書きましたが、要するにわたしも生活保護支給にからむ家族の扶養義務強化には反対の立場です。
そりゃあ家族の扶養にたよれるのならばそれにこしたことはない。
しかし、そもそも生活保護を受給せざるを得ない状況に追い込まれた当事者が、問題の根幹をなすと想像される家族との関係を強制的に強化されてしまっては、蟻地獄にでも落ちるかのようにしてそれこそ『呪い』から抜け出せるものも抜け出せなくなることは想像に難くない。

それをやるなら、扶養義務の強化とワンセットで家族への介入も取り入れ、家族ごと福祉で面倒を見る方向にするのが好ましい。
これができないようなら、受給当事者が家族と生計を切り離したところでの自立を支援する試みをやるのなら賛成です。

アルコール依存や薬物依存の当事者や家族、アダルトチルドレンの当事者の自助グループでは12ステップのプログラムの実践をします。
そして、これを通じて回復の道を歩むことができることが経験的に分かってきている。
当事者のみならず家族までもが問題に気づき内省が促されることによって、やがては家族間の関係性が整い当事者の依存性や生きづらさの問題が回復してゆきます。
(当事者の家族が集まる自助グループもあり当事者と同じ“12ステップのプログラム”が使われる。12ステップのプログラムは回復と成長のプログラムと言われています。)

それと、驚くことに家族との関係性が劇的に改善されることもある。
わたしは、ACAというアダルトチルドレン自助グループに通っていますが、今まさに自身の回復と同時に家族や周辺にいる人間関係の関係性が改善されてゆくことを手に取るように実感させられています。

自らが問題に気づき取り組み続けさえすれば、当事者のみならず家族も幸せへと近づける現実的な手段がこの“12ステッププログラム”だと言い換えることもできると確信しています。

ですから、この実感にからめたときにも、扶養強化することで家族と当事者の関係性をこれまでのパターンを使ったまま強化するのではなく、別の新しいパターンでつながり直せるようあえて家族に義務と責任を還元しないのがベターかと思うのです。

家族であれ人生を生きるのは本人しかいません。
そして、家族の扶養に甘んじながら主体的に生きられない人生など、それは自立した人生とは言えない。

あえて、ここは一旦は家族との関係性に問題があったという事実を直視し、大きな痛みを感じつつその痛みを仲間とともに独り向き合い変容させる道を選ぶことが自立への入り口です。
その痛みを受け入れて生きられるようになり精神的に自立してから思う存分家族に恩返しをしても遅くはありません。

自らの生きづらさが発端となった回復に向けての取り組みを続けていれば、実は家族のみならず遠い先祖や今目の前に広がる現実にある生きとし生けるものとの間にある関係性(縁)全てを、癒し受け入れそして愛し慈しむことへとつながっていることに気づくでしょう。

我が国日本が、個人がどのような苦境に陥ったとしても、新たに主体的な人生を歩み直せるような、より生きやすい国へと変容することを願わずにはいられない。

病は自らの体が治すもの

わたしはうつ病歴18年の当事者で、精神科や心療内科での治療の体験の中で処方薬に関しては紆余曲折ありましたが、到達地点は
『薬が病を治すのではなく、自らの体が治す』
ものだという認識に落ち着いた。

幸い、直近までに通院していた精神科の主治医は、うつ病患者に対しては薬の処方を最小限に留め、患者自らが対処法を身に付け実践することで症状を主体的にコントロールできるようにする、といった方針をお持ちのDr.です。
うつ病治療に関してはマインドフルネスなどを取り入れたデイケアは地方にしては珍しく日本でも先進的な試みをされているとわたしは通院しながら実感したものだ。
こういった意味においても、精神科という王道を歩みながらにして、これまでの治療とは一線を画した代替え医療的な試みの一環だともいえよう。

このような体験もあり、わたしの場合は必ずしも処方薬を“悪”だと決めつけすぎず、
『“必要ならば”信頼できる医師との相談の下で使用する』
考え方です。

ま、ガメツイですから、使えるものは使っとけというタイプw
しかし、精神疾患についての処方薬の多剤大量処方により症状なのか副作用なのか見分けがつかなくなる問題には要注意。

※ちなみに平成28年度診療報酬改定で、1日に処方できる向精神薬の数が(平成26年の改定より)さらにきびしく制限されています↓
抗うつ薬抗精神病薬の制限など(平成28年度診療報酬改定)|COMHBO 地域精神保健福祉機構
https://www.comhbo.net/?page_id=10740

これまでよりも、自らの体をケアするためには処方薬についてのリテラシーを意識して高く持つようにしておくことが、必要とされてきているのではないかとうつ病の治療を通して実感しています。

しかし、ここに至るまでにはいわゆる、“医療不信”や“処方薬不信”という場所を一旦通ったことも事実。
15年以上の通院と投薬治療を続けても何度も何度も再発を繰り返し、最後の方では主観的に幾度と死を意識せざるを得ない状況に追い込まれたため、不信感や怒りが募ったものだ。
わたしの場合は、たまたまにしてその後に出会った治療が精神科でなされていたにすぎず、人によっては代替え医療的な取り組みが効を奏することもあるでしょう。

精神科にかかるにしろ代替え医療的な取り組みを自ら行うにしろ、どちらにせよ
『当事者が主体的に治療に取り組む』
ということが、治療効果を上げることは確実です。
なぜならば、薬がわたしたちの体を治すのではなく、『わたしたちの体自らが病を治す』からです。

人間として生まれた体に既にインプットされている“病と向き合う力”が活性化されるのでしょう。
心理的には、
『病を自らのものとして受け入れる』
というプロセスを通りますから、現状の病を敵とみなして治療しがちな精神科医療とは相反するというパラドックスに陥りがちであるのだと感じます。

ホリスティック(全体性)に習い、生きることに要する全方位的なアプローチを病に対してやれば治療効果が高まるのは必然でしょう。
これまでの日本の医療は明らかに処方薬に頼りすぎだったと思いますし、こと精神疾患に至っては薬のみでの治療は難しいのではないかという実感を持っている。

ま、つまるところ、自分でやれるところはやりましょうねー、っていうごく当たり前のことを言いたいわけですw

しかし、手当たり次第やる前にまずは『病について知る』ことが大切です。
わたしもやりましたし、今でもより深く知ろうとし続けています。
難解そうな精神疾患にしても、これは当たり前の人間が当たり前の反応を起こしているにすきませんから、知ることは可能です。
知れば知るほど、世間一般で認識されがちな“異常”なものではなく、とてもとても純粋かつ正常なものだという風に思うようになりました。
内科とか外科とか体の内部器官のことを細かく知るよりも、簡単だと思いますよ。

それと、より宗教的というか哲学的な方面からのアプローチとしては、
『この病はわたしたちにいったい何を気づかせようとしているのか?』
ということに着目するといいでしょう。

これについては先日わたしの師匠とも見解が一致したんですけども、精神疾患に限らず癌なども含め体に現れる現象を通して、病はわたしたちに何かメッセージを伝えようとしています。
このことに自分なりに気づくことが、実際にわたしのうつ病が霧が晴れるがごとく一気に寛解していったきっかけになりました。

ま、気づき(Awareness)というものはダイレクトにこれまでの人生を省みた結果だとも言えますし、内面的な変容の証でもあり、気づきがもたらされると自然と行動も変わってゆくのです。
それにともない、自らを病に導くような行動から遠ざかる、ということが起こる。
うつ病などはいわゆる“心の病”とも言われますから、それこそダイレクトに回復に結びつくこともあるのではないか、と、わたしの劇的なまでの回復ぶりを観察していて感じているところであります。
(しかし、同時にうつ病は体の病でもあります。)

それと、大切なことを書き忘れましたが、うつ病であれ発達障害であれあまり病名にこだわりすきて、「うつ病なら~すべき」「発達障害だから~すべき」という~べき論にからめとられないように注意するといいでしょう。

それよりも、
『この生きづらさはどこから来るのか?』
ということを自分なりに理解しながら、
『ではより生きやすくなるためにはどのような取り組みをしたらいいだろう?』
といった視点から、取り組むとより広がりを持った取り組みに挑めると、実際にわたし自身が心構えとしてきて実感しているところです。
いわゆる“目的論”的にアプローチするということになります。

そうなると、伝統的な医療にせよ代替え的な医療にせよ、とっかえひっかえ試して効果なければいったんやめて効果あるものを残す、といったやり方を続けることで洗練されてゆき、やがては病が癒えるだけではなく、「幸福とは何か?」やがては「愛情とは何か?」という地点にまで到達できることでしょう。

ですから、
『病(苦しみ)とは自分なりの幸せに気づくために与えられたギフト』
だということも言えましょう。

具体的な治療についてというよりは、わたしが実際に治療に取り組みながら学んだ心構えやより広い意味についてのお話しでした。

読んでいただき、感謝します。
あなたの回復が進みより良い人生を歩めますよう、お祈りいたします。
ありがとうございました。

うつ病についてのよくあるぼやき

うつ病を知ることは人生を制す』
ぐらいのインパクトあると思うよ。

残念ながら一般の人ってあんまり正しく理解してないんだよね。
具体的には”気の持ちよう”で回復するほど甘くはない。

健康な人の落ち込んだ気分には単にその認識を加えることによって気分が明るくなるかもしれない。
しかし、その一言で明るい気分にまで回復するほど、うつ病の不安は甘くはない。

親切心からそういう言葉をかけたくなるのも分かるっちゃ分かるけどねw
オレもよくうやむやにしたいときとか使ったりするしw
しかし、日常会話じゃこれが限界かもしれないね。
より深い部分にまで突っ込んだ話しなんか、日常で出来る機会はごく稀だよね。

うつ病に対するより正しい理解を広めるのがわたしの使命でもありますから、こうやってぐたぐたと小言言ってる場合じゃないんだけどさw

よりみっちりと治療に取り組まないと回復しないのが事実。
具体的なアイデアとしては以下に示す通り。
1.本人が自発的に治療に取り組む動機(主体性)←これ一番大事
2.うつ病を理解する(自己理解も含まれる)←ここが二番目
※可能なら家族の方など周囲にいる人の理解があれば好ましい
3.薬による治療
4.認知の修正(認知行動療法
5.ストレス低減技法(マインドフルネス、ヨガ)
6.コミュニケーションの訓練(SST
ここまでは病院でやれる。

これに加えてわたしが目をつけているのが
スキーマ療法(生い立ちの愛着の傷由来の生きづらさに手当する、より深い技法)

あと、この効果が勝手に得られるのが、
自助グループによる分かち合いと12のステップをふむこと

うつ病の人の頭の中で繰り広げられている悩みの中核には、
『わたしは何者であるか?』
というものがあると、一般的には言えるでしょう。
過去の名だたる哲学者なんかの書物はこの悩みをより学問的な解釈を加えて言語化したものだと言えましょう。
すぐに名前は出てこないけど、沢山いるw
だって、オレも同じことで悩んでたから直観で分かるんだものw

んで、この問いに答えるには、
『己が何者であるのか?』
という自分を知るということをすればいいわけで、わたしはいつしかやっていていつしか辿り着いていただけなんですけども、うつ病治療の枠組みで言えば上に書いた「2.うつ病を理解する(自己理解も含まれる)」というもので賄えることになる。
あと、『人間とは何か?』というより普遍的な問いもうつ病の悩みに含まれているものでもあり、そういうアプローチをすることも大変有効だとは思う。

しかし、優劣つけるつもりはありませんが、ある程度のことを知的に理解できる人でないと厳しいかもしれませんので、一般的に有効だとは言えないかもしれない。
ちなみに、わたしの場合は、うつ病発達障害愛着障害、パーソナリティディスオーダー(パーソナリティ障害)、統合失調症などなどいわゆる”精神疾患”というものを書物や自身の体験を通して理解することで、人間理解というものに転嫁している。
と、書くと主体的にやったようで聞こえはいいが、知らず知らずのうちにそうなっていただけなんだけどねw
(これも、おそらくわたしを超えた存在によって導かれた結果なのでしょう。←本気でこう感じています。)

ここから分かった普遍的なことがらの一つは、
『人間理解には思いやりが大切』
だということ。
そして、やがてはこのことが主観的な幸福感を上げる礎と必ずなります。
人生をあげて積み重ねていればこそ、必ずです。

ですから、冒頭に書いた通り
うつ病を知ることは人生を制す』
ということになるわけです。

要するに、我をね超えなきゃ本当の意味での幸せはない。
己という我を超えて、他者を理解しようとする態度を身につけねば。
一般の健康な人にとっての”うつ病”とは理解しがたい存在でしょ?
誰にでも理解しがたいものって必ず存在する。
だからいい材料だと思うよ。

そして、人間は自らの欠損した部分を自らに吸収することによって、全体性を獲得しようとし続ける。
これが一般的には「成長する」ということであって、この観点からも我を超えて己の理解しがたい存在に対して理解しようと挑戦する態度を、人生のどこかの時点で育んでおくと、より全体性の獲得が促進される。
要するに成長するって話し。

こういうことを一般的に落とし込むと”教育”なんてことに行き着く。
わたしも教育に対して憤りを持っていた部分は大きい。
しかし、だいぶ落ち着いてはきたが、逆鱗に触れたら顔真っ赤にすることもあるかもね?w

どうだい、理解できるかな?w←という挑戦を投げかけている

こういう意味においても
『人生はまさに挑戦の連続だ』

境界性パーソナリティ障害とわたし

https://www.npwo.or.jp/info/5185

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よし、届いた。
オレにしては珍しく目を通した。
ざっとねw

読んでいて少しなつかしく感じた。
わたしもうつ病と診断されて18年目なんですが、近年心療内科で続けていた受け身の受診では再発を繰り返すばかりで途方にくれていた。
そんな折、2年前に休職して追い詰められてから、うつ病治療専門の精神科デイケアに通所することになったりアダルトチルドレン自助グループに通うようになったことがきっかけで、一気に回復が加速した今がある。

それ以前に、対人関係の悩みからくる苦しさをどうにか払拭したいという思いから、心理学や愛着障害、パーソナリティ・ディスオーダーの本などを読み漁っていた時期がある。
このときも追い詰められていてまさに必死だった。
あの頃は、現実の苦しみから逃れたはずが、本の世界にはわたしの弱点がびしばし書いてあり、強制的に自分と向き合わされていたように思う。

その期間に境界性パーソナリティ障害の回復した当事者であるリネハンさんが設計した“弁証法的行動療法”というものに出会い、憧れいつか治療でマインドフルネスを受けてみたいと強く願ったものだ。
その数年後には、実際に精神科デイケアで受ける機会に恵まれましたから、わたしにとってこれは奇跡に近い出来事だった。

長々と恐縮ですが、わたしのメンタル不調や体の不調の根底には生い立ち由来の“愛着(アタッチメント)”に問題があると、だいぶ以前から直感で気づいていたにせよ、当初は素人のわたしにはどのようにして回復に向けて歩んだらいいのかすら見当がつかなかった。
しかし、この直感をあきらめずに持ち続けていたところ、気づいたら自ら具体的に理解するための材料が目の前に現れ続け、自分なりに理解するに至った。

この東北の片田舎では満足に治療を受けられる場が乏しいため(わたしが知ら

ないだけで実はあるのかもしれないが)、それなりにではあるが自分でやらなければならなかった。
(と、いうよりは、人生に追い詰められてやるように迫られた感覚がある。)

長くて堅苦しかったw

境界性パーソナリティ障害周辺のモデルは大変参考になっている。
確実にわたしを回復へとつなげてくれています。

2枚目の写真にある、
『●BPDの病態①対人関係の障害②行動コントロールの障害③感情コントロールの障害』
これら全てがだいたい自分に当てはまっていた。
(追い詰められるまでは自覚ありませんでしたから、悩みどころです。
自覚するのって大変なのかもしれませんね。
もっと早くに気づいていたら、回復へと糸口ももっと早く見つかりこんなに苦しまなくてもよかったかもしれない。
しかし、苦しむことを通してこういうモデルと出会ったのだから、それもまた意味のあることだったと思いたい。)

それと、写真3枚目にある、
『治療の原則:すべてのチャンネルを使う。』
『すべての機能領域や場面が治療の舞台となりうる。』
この発想もいつしか芽生えていて、日常を対人関係の訓練の場だとわたしなりに設定をして取り組んだりもした。
(今でも続けている。ちなみにデイケアでもSSTをやる機会に恵まれた。)

医療的には“うつ病”(それと“社会不安障害”と“適応障害”診断されたことも)と診断されましたが、そのベースは“パーソナリティ障害”や“愛着障害”由来。
多少使い古された感もあるかもしれませんが、性格傾向としてはアダルトチルドレンそのもの。
発達障害”ぽいところも見いだしているし、最近出会ったものではどうやら“HSP(Highly Sensitive Person)”だったのかもしれないと思うようになってきた。

余談ですが、アダルトチルドレン自助グループ(ACA)では心理療法的なテクニカルなことは一切せず、内面に重点を当てるやり方をする。
基本的には参加者が全員当事者であり、その人たちが集まるミーティングで体験談が言いっぱなし聞きっぱなしで行われる。
アルコール依存症の当事者グループ(AA)由来の『12のステップ』を各々が理解し生活の中で使用する仕組みだが、わたしにも効果がある。
あくまでもわたしの印象だが、BPDの「②行動コントロールの障害」がわたしの依存症の症状と一致する。
※人それぞれ合う合わないはあるでしょう。

話を戻します。
出口にあったHSPは病気の分類から少し離れたより健康的なものでありまるで存在を肯定されたかのような気分です。
それ以外は全は『病気』でしたから、そもそも「社会不適合者」と自らで十字架背負って生きてるような自己肯定感のかけらも無かったわたしに、これら病気のことを受け入れようものなら本当に世界から抹殺されてしまうんじゃないかというほどの恐れがあった。
大袈裟な表現だったかもしれませんが、なぜだか知らないところで抱えている大きな『恐れ』が病気だと自覚することをためらった大きな要因だったように、振り返った今では思うのでした。

周囲のサポートはね必須です。
周囲に理解者がいない環境はね、とてもハードです。

このようにして、社会で向き合う仕事に乏しくお金もなく貧乏になり、やることが無くなり辿り着いたところが『すべてのチャネルを使う。』だった。

偉そうに書きましたが、今でもすぐに崩れ落ちそうになるし、そうでもしないともう正直苦しくてやってらんない。

神さま助けて!w

痛みと共に生きる

輝け元気!ブログ » Blog Archive » 抑圧って何?防衛機制って何?

わたしも祖母が亡くなったショックを抑圧していたことになるのだろう。
高校2年生の頃、まるで母親のように感じていた祖母が亡くなったショックは当時あったのだが、あまりにも衝撃が大きかったのでしょう、悲しむ間もなく感情を心の奥底へと追いやりフタをしたのが分かる。
人として当たり前に悲しまなかった。
この先しっかり生きていかなければならないという気持ちで圧し殺していたような気がする。

無意識の防衛機制の抑圧と意識的な否認。
この二重のロックをかけたものが、わたしがうつ病を患ってから10年以上経ってからふとしたきっかけで、ロックが解けて涙してからが地獄のような苦しみを味わった。
わたしの場合は別の理由でうつ病を患い、心理的に衰弱したことがきっかけで、過去の傷つき体験群のフタが開き、そのときに一番奥底に追いやっていた祖母が亡くなった悲しみとも直面することになったのだろう。

直面した当時は罪悪感や怒り(恨み)そして後悔など、ありとあらゆる負の感情が極限まで膨れ上がっていた。
それだけに留まらず、とても些細な傷つき体験すら現実とリンクして過剰に反応する日々。
日常生活なんて送れたものではなかった。
これら感情群と向き合いつつ、それなりに日常生活を送りつつ、同時に悲しみと向き合うための手段としてのグリーフケアを学びながら、どうにか感情と向き合おうと必死だった。
ま、感情が爆発しすぎてお世辞にも向き合っていたとは言えない。
しかし、一人でよくやったとは思う。

フラッシュバックの大嵐だったぜw
内面から押し寄せる感情から何度も殺されるかと思ったほどだw
しかも、何度も繰り返すうつ病背負いつつ、対人恐怖の大ボスである女性に対する見捨てられ不安も極端なまでに感じ、かつ『自分でも分かるほど』劇的に精神的に退行していた。
こんな状態じゃ「死にたい」が大暴れするのが当たり前w

ほんと、内側からも外側からも同時にあらゆる苦しみが押し寄せていたあの状況を生き延びられたのは奇跡に近い。
もはや、何も信じられるものなど無いという感覚のもと、上に書いた『自分でも分かる』という自らを感情から切り離したところで俯瞰したところから観察する部分(観察自己)がなければ、とっくのとうに死んでいたでしょう。
幸い、わたしはアダルトチルドレンなため、そもそも感情に疎く、感情とは違う部分、つまり客観視する部分を使い生きるという人間らしくない生き方をしてきたがために、それが奏功したのだと思う。

ちなみにアダルトチルドレンのカテゴリでいうとわたしはどちらかと言うと“ロストワン(いない子)”であり“心の中で遊ぶ平和主義者”らしい。
ちなみに、他者を世話するケアテイカー、成功者を演じるヒーロー、反社会的なスケープゴートなどなどこれら全ての特性もかいつまんで合わせ持っているなと自覚している。
しかし、わたしは基本そこにいながらにしていない存在感の薄い人間なことは確かだ。
今ではそうでもなくなってきたが、この生き方が染み付いている。

うつ病になったそもそものベースにあるものが“アタッチメント(母子の愛着)”にあり、そこには母親と祖母との関係がからんでいて、祖母との関係がキーになっており、祖母が亡くなったことによる悲しみに直面したおかげで、一気にわたしの回復が進んだことは事実。
もって生まれた繊細な気質とそれなりの家庭環境が織り成して発病したうつという病。
派手な環境ではなくて、どこの家庭にもありそうなものであることが発端となっているということがポイントで、健康な精神状態を維持できている人も実は紙一重なのだなという風にわたしは思うようになった。

最近の人生は回復のために全部を注いだ。
しかし、裕福ではないため、自分でやれるところはやらざるを得なかった。
追い詰められながらの独学である。
しかし、今思えば自らが自らを知ろうとすべく学ばなければ回復はなかったことを実感している。

直近では昨年精神科デイケアうつ病回復プログラムも受け、ACAというアダルトチルドレン自助グループにも毎週通っている。
東北の片田舎のこの地では自助グループはあまり知られておらず、参加人数は少ない。
わたし一人で場所を開ける日もよくあるほどだ。
しかし、これは必死に独学をしていた頃と同じく誰のためでもなくわたしが回復し続けるために必要だからやっていることなので、一人になろうが構わない。
寂しいのは確かだけどw

最近では自助グループのサービス提供の仕方を学ぶべくAA(アルコホリックアノニマスアルコール依存症当事者の自助グループ)とNA(ナルコティックアノニマス、薬物依存性当事者)にも足を運び、分かち合いに参加している。
(世の中には他にも、GA、SA、EAなどの12のステップをやるアノニマスグループがあるらしく、いつか参加してみたいと思っている。ちなみにアルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症それぞれに対応した家族のアノニマスグループもある。アノニマスグループの価値は「何者でもないわたし」がありのまま受け入れられるところにある。悩める人の物理的な居場所であると同時に心の居場所ともなる。)
参加していて分かったのだが、依存症者のベースにあるのはアダルトチルドレンという傾向ですから、彼らはACであるわたしとほとんど似通った気弱な方たち。
アダルトチルドレンとはいえ皆と同じ人間。
ですから、彼ら依存症者もわたしたちと何ら変わりない弱さを抱えて生きる人間だというこだということを実感しています。

依存症は病気ですが、現代は依存対象が多いことと皮肉にも社会をあげて知らず知らずのうちに依存症者を生産しまっている側面もあるとわたしは感じている。
(依存症抜きにしても、自助グループで使っている“12のステップ”は自立と成長の観点からわりと幅広く効果あるのではないかと思う。)
オープン参加できますので、ご興味のある方がいらっしゃいましたらいかがでしょうか?

こうやって振り返ってみると、数々の奇跡の連続の上で生かされているのだなと改めて感じる。
しかし、わたしは苦難を乗り越えてなどいない。
今でもあの数々の痛みと共に生きているのだ。
大切な人を傷つけ続けているということも含めて。

だが、痛みは忘れてしまう(抑圧)よりどうにかして受け入れてしまう方がいい。
やり方は様々あるでしょう。
自助グループで使う“12のステップ”もそのうちの一つ。あれは依存症回復のためのものではなく、もはや与えられた人生そのものを受け入れて生きるための知恵であると確信している。)

痛みがあるから他者に対する思いやりが深くなるし、感謝の気持ちもとても深いものとなり味わうことができるもの。
やがては、自分の傷や弱さを受け入れたことを通して、他者の弱さや存在そのものを愛し慈しむことへとつながるだろうとわたしは信じています。

わたしにとって人生でやるべき最大の仕事。
それは、何かの職に就いてお金を稼ぐことではなく、人間としての弱さを抱えるわたしを見捨てることなく愛することである。

そして、今では祖母の存在に守られていたのだなと感謝できるようにまでなった。

ハイヤーパワーの導きに感謝です。
ありがとうございました。

生活保護と自立支援プログラム

「貧困は社会のせいだ!」と信じて、生活保護申請随行のボランティアをしたら、クズばっかりだった話

いわゆる一般的な人と比べて、
『適切な計画を元に一人で生活を切り盛りしてゆけるはずだ』
といった先入観で眺めるでしょうから、落胆するのもおおいに納得できる。
そりゃあ、当事者を「そんなこともできないのか」と、責めたくもなるでしょう。

わたしなりの意見としては、ブログ主の実体験を参考にさせてもらうと足りていないのは「基本的なお金の使い方」を含む『生活スキル』なのでしょう。
支給金額を小出しにしたりするのも、強制的に計画性を持たせるという意味ではいいのかもしれない。
しかし、その環境から外れた場合のことを考えると、彼らの自立について考えた場合、教育や訓練などによりそういった生活スキルを身につける機会を作ってゆかなければならないのではないかという発想が浮かぶ。

生活保護の位置付けは自立支援の一貫だとされているのか定かではありませんが、そのような位置付けにして現金給付のみだけではなく、教育的なものとセットで提供した方が効果が高くなるのではないかと想像します。
そもそも基本的な生活スキルを学ぶ機会に乏しかったのかもしれないし、依存症などの病気の状態に陥ってしまい本来の価値観を逸してしまったまま知らずに生きているのかもしれない。
ちなみにブログに出てくる薬物依存者はれっきとした病気ですので、治療が必要なのです。

お金だけで後は本人任せで解決しようとするのではなく、当事者の背景に思いを馳せた上で、彼らの自立に向けて足りないものをサポートする体制が整っていれば、いつ生活困窮に陥るとも分からない不安定な社会情勢においては、わたし含む一般市民の方々も安心して生活を送ることができるのではないでしょうか。

『支援の在り方』
を、もう一度棚卸しをして再考すべきときなのだとわたしは感じています。

人生を何度でも再スタートし直せるような世の中にしてゆかねばならぬと、現在も人格的な部分も含め生活再建に取り組み続けているわたしの切なる願いです。

薬物依存と自助グループ

“覚せい剤やめますか?人間やめますか?”の害:日経ビジネスオンライン

最近わたしはNA(ナルコティック・アノニマス)という薬物依存症の自助グループのミーティングに通いだした。
ちなみに、わたしは薬物依存症の本人ではありません。
しかし、わたしはそれら依存症のベースとなると言われているAC(アダルトチルドレン) の本人だということを自覚しているため、ACA(アダルトチルドレンアノニマス)という自助グループに通っている。

NAとACAは両方ともAA(アルコティック・アノニマス)というアルコール依存症者の自助グループから派生したグループで、個々の体験談はそれぞれのアディクション(依存対象)に依りますが、ほぼ同じ仕組みやルールで運営されているんだな、ということを参加して体感してきた。
ちなみに、地域にあるAAにも足を運んでいます。

AAもNAも通い続けることで、依存から脱し続けることができることが過去から続く仲間たちの体験的に分かっています。
背景にあるのが<孤独>だったりしますから、わたしには納得できます。

人間として本来あるべき“依存”の対象を、他者に対して健康的に依存する、というやり方で取り戻せるのだと、わたしは実感しています。

NAに通う中で感じたことはというと、
『世間では犯罪者のレッテルを貼られ無理解に晒されている彼らだと思うが、実際には人生をやり直すべく真摯に治療に取り組んでいるんだな』
という実感がありました。
わたし、静かに感動しているところです。

そのような彼らが、わたしのようなどこの馬の骨とも分からぬ相手に対し回復を願う“仲間”として快く受け入れてくださるものだから、人に頼れず孤独の中で生きてきたわたしは嬉しくてたまらない、という体験をさせていただいています。

このような彼らの態度から受ける印象はというと、
『思いやりある人たち』
です。

おそらく、社会に蔓延している先入観とは真逆なのではなかろうか。
この先入観を打破するような体験をしているということは、とても貴重なことなのではないか。
ということをここ最近のわたしは感じています。

本やネットなどで間接的に触れていたとはいえ、これほどまで感動するとは思いもよりませんでした。

おこがましいながらも、依存症という病気の患者である彼らの回復、そして社会の理解が少しでも進むことを祈らずにはいられません。

学びも深く、このような巡り合わせに感謝です。